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「石川淳選集」第5巻に収録
岩波書店



「石川淳」に収録
ちくま日本文学全集
1991



「紫苑物語」に収録
講談社文芸文庫
1989


 石川淳は私の偏愛する作家である。
 石に興味をもちはじめ、あらためて『八幡縁起』(昭和33年)を再読してみると、本書には石にまつわる伝承が随所に仕込まれており、土着の神々が放つ強力な磁場に圧倒される。

 かの澁澤龍彦氏は『偏愛的作家論』のなかで、

 「――石川淳氏の小説には、かように日本古典や民俗学上の故事がさりげなく散りばめたものがあって、ふとそれに気がつくと、目から鱗の落ちる思いをすることがあるのを指摘しておこう。」

 という一節があるが、まさに目から鱗。『八幡縁起』のおもしろさは、奇想横溢な伝奇的要素だけにあるのではない。本書は、日本人の深層に潜む土着の神々の幾世紀にもわたる変容の物語りなのである。

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 「岩の中に住むためには、横穴をうがたなくてはならない。穴は廣くはなくても、身を置くにたりる。そこから外に出て来るときの恰好といへば、あたかも岩を押しわけてぬつとこの世にあらはれたやうに見えた。 そこで、いつとなく、石別(いしわけ)と名に呼ばれることになつたが、その名は當人の気に入らぬものではなかつた。――」

 上記は、石川淳独特の妖気をはらんだ『八幡縁起』の書き出しである。
 物語の主人公石別の生まれた村は、あらぶる賊に襲われ、父母は殺され、小屋は焼かれた。生き残った14歳の石別は、焼け残った一本の斧もち、山に入り、岩穴のなかで、自然児となって再生する。
 石別の名前は『日本霊異記』(上巻第二十一)の「馬を酷使して殺した男、熱湯に両眼が抜け落ちる」という畜生虐待譚に出てくる。おそらくここから典拠されたものと思われる。

 山に住むこと八年、石別は妻をもつ。子は太郎、次郎、三郎と末の娘・鮎(あゆ)の四人。物語はこの石別一類とその末裔にわたる三つの時代から構成されている。
 まず最初は、妻の発明する轆轤(ろくろ)をもって木地屋となった石別一類と、村を襲い、後この土地に住みついた荒玉(あらたま)一族との対立抗争からはじまる。ここでもっとも神話的アニミズムの発現として注目されるのが、石と山の成長である。

「――春秋のすぎるにつれて、こどもは次第に大きくなる。斧はさらに岩をきざんで、横穴もまたひろがる。そして、岩もおのづから大きくなり、山もまたしたがつて大きくなつて行った。すなはち、人間のこどもとおなじく、自然も絶えず成長することをやめないという事実が見られた。――」

 荒玉の住む里にも異変がおこる。シャーマン荒玉の祈りに感応して大地は盛りあがり、丘となって成長をはじめる。石別一類と荒玉一族との対決は、この山岳成長伝承とともに進行していく。

「七日めに、丘はすでに小山と見えた。成長は日ごと夜ごとにやまない。若竹のやうにぐんぐん伸びあがつて、そのいきほひは次第に増すばかり。すさまじいまでのけしきを空に切りひらいて行つた。三七二十一日めには、それはまさに山であつた。――」

 石が成長するという信仰は、「君が代」にさざえ石が巌(いわお)となる一節があるように、太古、石には霊魂が宿るとされ、霊が成長すればおのずと石も大きくなる考えられた。
 石が成長するという伝承は各地にみられる。茨城県日立市の大甕(おおみか)神社の宿魂石に、その一例が残されている。
 不服(うべな)はぬ神甕星香々背男(みかぼしかがせお)が久慈郡大甕山の巨石に変じて、日ごと成長し天にもいたらんとする。この悪(あ)しき神に対し、香取の経津主(ふつぬし)命と鹿島の武甕槌(たけみかづち)命が、武神である武葉槌(たけはづち)命を遣わし、岩に姿を変えた甕星香々背男を金の沓で蹴り上げると、岩を砕け、一つは神磯として今に伝わる「おんねさま」になり、あとの石は石神、石塚、石井に飛んだという。
 この伝承は日本書紀の国譲りの条にヒントを得て書かれたもので、天つ神による国つ神の平定が語られている。
(参考:『神社と古代民間祭祀』大和岩雄著 白水社)

 山の成長については、石上堅氏の『新・石の伝説』(集英社文庫)に多くの伝説が紹介されている。
「八ヶ岳と富士山とが、大昔その高さを争い、山の神さまが富士の嶺から、八ヶ岳の嶺へ樋をかけ、水を流して調べてみると、富士の方に流れたので、富士はくやしがり、その樋で八ヶ岳の頭部を打ち、その横腹を蹴あげた。そのために八ヶ岳は低くなり、あんなに嶺が幾つにも分かれたのである(長野県南佐久間郡南牧村)。」

 もう一つ、石に刻まれる聖なる証は、石別最後の戦いで見せる巨大な足跡である。

 「なんぢら、大神のいかりをおそれよ。今、末の世までのしるしに、わが足跡をここにとどめるぞ。みだりにこのところを犯して神罰をかうむるな。」

 石別の魂を宿した足跡石は、荒玉一族にあやかしを起こすが、荒玉は一向に畏れることなく

 「さきほどのあやかしを見て、おそれのこころを兆したとでも、おもいをるか。左にあらず。聞け、廣蟲(ひろむし)。われら、わづかこの尺寸の地をえたのみにて、小成にやすんじてはならぬ。國はまだまだひらけるぞ。いや、ひらいて見せう。國つくりはこれからぢや。打ちしたがへるべき山山は数かぎりない。行くところの地には、かならずやその地に古き神神はあらう。またその神神をふかく信ずるやからがあらう。力なき神は取るにたらぬ。ひとに畏怖の念をいだかしめるほどの神ならば、取ってもってわが神とすべし。すなはち、その神を奉ずるやからのこころを取ると知れ。そのやからとても、ひらけゆくわれらの國の、あらたに附く民ぢや。神も人も、殺すべきものは殺し、生かすべきものは生かせ。これを生かして使へば、いつかはわれに利があらう。みだりに功をあせるな。大國を治めるの法は、今までのごとき尺寸の地のあらそひとはちがふぞ。かのほろびた山の神をいつき祭るといふは、やがてわがものとする四方(よも)の山を治め水を治めて、ひろく國つくる手だてとさとらぬか。」

 荒玉は、足跡石を祭り、われらの神の一つとする。

 「わしの孫の、そのまた孫の、末の世におよんで、かの名なしの神、まことにわれらの國を護る神の一つとなりおほせたときには、名はもとめずともえられよう。じつは、そのときこそ、あてがはれた名に応じて、神體もまたおのづから入れかわることにもならうて。――」

 荒玉は、時代が変わり、社会の構造が変わるにつれ、神も変わらざるをえないといってのける。

 ここで見て欲しいのが、植島啓司の『聖地の想像力』にある「聖地はわずか一センチたりとも場所を移動しない。」という定義である。

  「宗教では祀られる神さまがもっとも重要に見えるが、実は時代の変化にともなって祀られる神さまはころころ変わる。それなのに、一見たいしたことでないように見えるものが変化しない。神話についても、その場所で隆盛を極める宗教によって、その内容は刻々と変化するが、不思議なことに「ある場所である神が怪物を退治した」というようなモチーフだけは、いくら宗教が入れ替わっても変化しない。」

 さてこの足跡石は、大人弥五郎(おおひとやごろう)の巨人伝説に由来するものではないだろうか。
 「巨人の足跡」は柳田国男の『山の人生』に詳しい。この中で大人は八幡神の眷属のようにもいえば、また昔、大神に征伐された兇賊と伝えられているとしている。

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 続いて時は下り、平安中期の武将、源頼光(よりみつ|948-1021)の時代に変わる。頼光の家臣碓氷貞光が、石別の末裔、真冬のおじと称する木地屋との問答のすえ、坂田金時(幼名金太郎)を連れて行く場面となる。ここは、あの有名な足柄山の金太郎伝説に由来するものである。

 「こやつはこの山の子ぢや。たれいふとなく、公時と呼びならはした。父はなにものか、ありとも知れぬ。母は山また山の山めぐり、行方いづこともさだまらぬ。この公時、木地屋の手わざはこころえねど、われら一類にはちとゆかりがある。……」

 木地屋一類とゆかりがあるものといえば、タタラであろう。谷川健一氏も『鍛冶屋の母』の中で、金時や酒呑童子の物語の背後に、雷神=鍛冶神の存在が暗示されていると記している。
 名なしの神は源氏の氏神としての八幡大菩薩になった。

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 それよりまたいく世をへて、時代は足利尊氏と後醍醐天皇以降の南朝が争う動乱の時代へと遷る。
 源氏の嫡流、室町幕府の初代執事・高師直(こうのもろなお|?-1351)の軍勢により、木地屋のわかものの首が飛ぶ。このとき源氏の氏神八幡宮にも火がかけられる。

 「源氏とはなにか。源氏はおれよ。このおれが源氏ぢや。源氏の世とは、すなわちおれの世ぢや。おれの守護はおれの手でする。このおれの世はおれの力でひらくわ。八幡にはたのまぬて。」

 『太平記』には、「院」を「犬」と呼び、「天皇などは木か金(かね)でつくり、生きている天皇は流罪にしてしまえ」という暴言を吐く、神仏を畏れぬ師直の現実主義的な人となりが記されている。

 柳田国男は、古い信仰が新しい信仰に圧迫され敗退すると考え、岩田慶治氏は合理主義思想が神を追放すると考えた。
 日本でもっとも普及した八幡神であるが、「実は時代の変化にともなって祀られる神さまはころころ変わる」
 石川淳は『八幡縁起』という中編小説の中で、古来からの民俗伝承をもとに想像力の限りを尽くして、土着の神々の零落を描いていった。

 昭和33年(1958)、石川淳59歳の作品である。

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『八幡縁起』石川淳選集 第五巻 岩波書店