「万治の石仏」正面。地元では「浮島の阿弥陀さま」とよばれている。
 写真で見るより、実物のほうが断然いい。
 胴石のスケール感と大きくくぼんだまなざしに宿るきびしい求道者の表情は、写真ではまったく想像できなかった。
 高さ2.7m、長さ4mの自然石(輝石安山岩)の上に、高さ63cmの仏頭がちょこんと載せられている。稚拙な感じが大きいが、それがかえって活き活きとして、一度見たら忘れることのできない異形の石仏である。
 岡本太郎が「こんな面白いもの見たことがない」と絶賛した「万治の石仏」。異形と称されるのは、自然石の胴体に別の石で彫られた仏頭が載せられていることによる。石仏は、原則として一個の石から刻出されなければならないという。なぜ、このような類例のない石仏がつくられたのか。

 五来重『石の宗教』のカバー写真に「万治の石仏」が使われているが、同じ角川選書にもう一冊、この石仏がカバーに使われている本がある。宮嶋潤子の『謎の石仏―作仏聖の足跡』である。
 謎の石仏とは万治の石仏であり、宮嶋潤子が長い探索の旅を経て、この異形の石仏の正体を解き明かしていく。

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 万治の石仏は、長野県下諏訪町奥山田、諏訪大社下社春宮の西を流れる砥川対岸の道を150mほど入ったところにある。「万治」の名は、胴石に「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれ、その左に「万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉広春」の刻銘があることによる。万治三年とは江戸時代初期の西暦1660年。今より346年前、明誉と心誉という二人の人物が、この「あみだ様」をつくったことを示している。

 願主の明誉、心誉とは、いかなる人物なのか?


正面から見ると鼻の大きさばかりが目立つが、角度を変えると実にいい顔になる。


『謎の石仏―作仏聖の足跡』宮嶋潤子 角川選書 1993
上に「万治の石仏」、下には『弾誓上人絵詞伝』
浄発願寺本(部分)の図版が使われている。


胴石側面の長さは4m余り、高さは2.7mもある。
 宮嶋潤子は、作仏聖(さぶつひじり)、遊行聖の系譜を辿るなかで、『弾誓上人絵詞伝』(箱根塔の峰阿弥陀寺蔵)の「仏頭授受」の場面に出会い、胴体と仏頭が別々に刻まれた万治の石仏の作風と重ね合わせる。『絵詞伝』には、慶長二年十月十五日の夜、念仏に励んでいると、佐渡檀特山の岩窟に阿弥陀如来が現れて説法される。説法が終わったとき、阿弥陀如来の脇に立たれた観音菩薩が、弾誓に仏頭を授けたという伝承が残されている。

 弾誓(たんせい・1551-1613)とは、遊行造像僧・円空(1632-95)や木喰行道(もくじきぎょうどう・1718-1810)に先立つ作仏聖集団のリーダである。尾張に生まれた弾誓は、念仏三昧の修行した後、40歳を越えて佐渡にわたる。その後、出雲崎を経由して信州に入り、虫倉山を拠点に諏訪地方を遊歴している。

 宮嶋潤子は、万治三年は弾誓(たんせい・1551-1613)上人の50回忌がおこなわれた年であり、ほとんど無名に近い明誉と心誉が、弾誓を初祖と仰ぐ作仏聖の流れをくむ僧であることをつきとめる。

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 五来重は「万治の石仏」を積石信仰の形態ととらえ、宮嶋潤子の説をもとに「弾誓の仏頭伝授は、自然宗教、または原始宗教時代の修験道の自然石崇拝が基礎となり、真言念仏の「宝冠の弥陀」の思想が入って、宝冠の代わりに仏頭をもちいたもの」と推理している。

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2006年4月9日撮影


クサビが打ち込まれ、背面はすっぽりと削り取られている。


【案内板】


胸の袈裟部。日、月、雲、雷など大宇宙を現す紋様が彫り込まれている。


中央に「南無阿弥陀仏」の六字、左に「万治三年十一月一日」その下に「願主 明誉浄光 心誉広春」と刻まれている。