約2500年前、縄文時代晩期の配石遺構


発掘の際、住居跡に「掘り込み」や「周堤」が見られなかったことから、
一般的な縄文時代の竪穴住居ではなく、壁立式土葺構造の形で復元された。手前は円形石組


立石(左)と石棒(右)
 八ヶ岳の南麓、標高約860mの高原に位置する金生遺跡から、北に八ヶ岳、南に富士山、西には甲斐駒ヶ岳までが見わたせる。
 現在は、360度の視界が開かれたのどかな田園地帯だが、約2500年前の縄文時代晩期には、シカやイノシシの群がる一面の灌叢林だったのではないだろうか。遺跡の一カ所から火熱を受けた138頭分のイノシシの下顎骨が出土ていることから、往時の風景がのぞき見える。イノシシの多くは生後8カ月ぐらいの幼獣であり、少数の成獣の下顎骨の場合は犬歯が抜かれていた。狩猟呪術にかかわる可能性が考えられる。

◎◎◎
 金生遺跡は、1980年(昭和55)から発掘が行われ、住居跡38軒、配石遺構5基、集石遺構3基、石組み遺構16基などの豊富な遺物が発見された。
 八ヶ岳山麓の縄文文化は、中期に頂点をなし、後期から晩期にかけては気候の寒冷化により人口が激減し、文化的にも衰退したと考えられていたが、どっこい、この遺跡によって縄文人の活動力は、かほど脆弱なものではなかったことが証明された。

 遺跡入口に置かれている配石遺構図(右図)から計測すると、遺構の大きさは幅約10m、長さ約40mに及ぶ大規模なもので、石棺・方形石組・円形石組などが組み合わされた、墓を中心とした祭祀性の強い遺構であることが分かる。
 石の中には八ケ岳山麓には存在しない花崗岩の巨石もあり、これらは10キロも離れた釜無川から、相当な労力を投下して運びこまれている。

◎◎◎
 石棒は、縄文前期後半から作られはじめるが、用途は土偶と同じくまったく不明。初期は手のひらに入る程度の大きさだったが、中期以降になると大形化し、住居の内部に祭壇のように立てられたり、炉石として転用されたりした。
 後・晩期になると、この遺跡に見られるように、石棒は野外に持ち出され、配石の中に置かれるようになる。
 石棒に秘められ祈りが、個人単位から家族単位、集団単位へと移り変わっていることがうかがえる。

 また、装身具のなかに、翡翠(ヒスイ)製のペンダントが見つかっている。この翡翠は新潟県南西の糸魚川市青海町あたりに産出する「糸魚川産」製で、同様の翡翠は北海道北部の礼文島(れぶんとう)・利尻島(りしりとう)でも発掘されている。翡翠遺物の研究は、縄文時代の交流を解き明かす鍵といえる。

◎◎◎
2006年9月24日撮影


男根状石棒。加工には相当な熟練度が必要だろう。


配石遺構の俯瞰図【案内板】より


石棺


1983年(昭和58)に国指定の史跡に指定された【案内板】