日本海に面した島根半島北岸のほぼ中央部、惠曇(えとも)港に流れる佐陀川を、約2kmほど遡った右岸にある松江市役所鹿島支所の北側。民家の間に参道があり、鳥居をくぐり石段を上った山のふもとに、本郷(畑垣)の恵曇神社は鎮座している。
『出雲国風土記』秋鹿(あいか)郡条に「恵曇の郷。郡役所の東北九里四十歩(約4.9km)。須作能乎命(すさのおのみこと)の御子、磐坂日子命(いわさかひこのみこと)が国をめぐりなさったときに、ここにいらしておっしゃられたことには、「ここは国が若々しく美しいところだ。地形はまるで画鞆(えとも)のようだなあ。わたしの宮はここに造ることにしよう」。だから、恵伴(えとも)という。神亀3年(726)に字を恵曇と改めた。」(荻原千鶴『出雲国風土記』〈現代語訳〉講談社学術文庫)と記されており、これが惠曇の地名由来とされている。
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恵曇郷の神社について、『出雲国風土記』(天平5年(733)に完成)の神社記には、神祇官社として「恵杼毛(えとも)社」の記載があるが、これが後の延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』の「恵曇神社」に該当するといわれている。風土記には「恵杼毛社」の他に、不在神祇官社(「神祇官帳」に登録されていない神社)として「恵曇海辺社」「同海辺社」の2社があり、計3社の名が記されている。
風土記に記載されている3社のうち、式内社の「恵曇神社」はどの神社に比定されるのか。地区住民にとって重要な問題であった。
かつては、恵曇郷の本郷である畑垣の恵曇神社が「恵杼毛社」であり、恵曇町江角(えすみ)の恵曇神社は「恵曇海辺社・同海辺社」」と比定されていたが、元禄年間ごろに、江角の恵曇神社側から異議がとなえられ、以来、本郷と江角地区の間で式内社論争が絶えなくなったという。そして明治時代に入ると、江角の惠曇神社が延喜式所載の恵曇神社であると松江縣に認定され、明治5年に郷社に列せられる。それまでの郷社・村社の社格が入れ替わったわけである。その後、本郷の惠曇神社側の村民が請願を起こし、その結果、明治11年に本郷の惠曇神社も「惠曇神社」の社号を掲げることが許可されたという。
現在では、本郷畑垣の恵曇神社を式内恵曇社とする見方が一般的になっているようだ。岩波の日本古典文学大系『風土記』の注にも、それぞれの比定地として、恵杼毛社=佐陀本郷の恵曇(畑垣)神社、恵曇海辺社=鹿島町江角の恵曇神社、同海辺社=恵曇海辺社と同社内の小祠、旧社地は西方の浜辺、があてられている。
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本郷の恵曇神社が『出雲国風土記』の「恵杼毛社」に比定される理由として、祭神である磐坂日子命(いわさかひこのみこと)の神名が関係するといわれている。
「磐坂」は「磐境」と同義であり、磐坂日子命の神名は磐座を象徴化したものと考えられる。とすれば、当社境内に鎮座する磐座こそが、まさしく磐坂日子命であり、恵曇神社のご神体そのものであろう。
磐座は、本殿横の裏山の斜面に鎮座している。3つの巨石が「小」の字型に寄り添うように並び、石の高さは1.5〜2.5mほど。祭神である磐坂日子命が、国土開拓のための御国巡りの際に、この岩に腰掛けたという伝承をもつ。地元の人々から「座王さん」と呼ばれ「住民の暮らしを守ってきた大切な岩」として、神の宿る磐座として大切に祀られている。
江角の恵曇神社も、祭神を磐坂日子命としているが、この神社付近には磐座らしきものは見あたらない。磐坂日子命を祭神とする「恵杼毛社」は、磐座のある本郷の恵曇神社がふさわしいといえるだろう。
瀧音能之氏の『古代出雲の社会と信仰』(雄山閣)によると、海岸部に鎮座する恵曇海辺社の祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とされている。市杵島姫命は宗像三女神の一神であり、海人集団が祭る神である。この地域が本来、漁業によってなりたっていたことを考えれば、恵曇郷は海岸部から発達し、まず最初につくられた神社が海辺社であり、のちに内陸部に向かって農地が開拓される過程のなかで、恵杼毛社が祀られるようになった。由緒的には恵曇海辺社・同海辺社の方が、恵杼毛社よりも古いであろうと推測している。
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『出雲国風土記』には、宍道湖を取り囲むように、意宇(おう)郡、秋鹿郡、楯縫(たてぬい)郡、出雲郡の4つの神名火山(かんなびやま)が記載されている。恵曇神社のある秋鹿郡の神名火山は、恵曇神社の南西約2km、いまの鹿島町境にある朝日山(341m)と比定され、その東側のふもとには出雲四大神のひとつ「佐太大神(佐太神社)」が祀られている。
佐太大神は、「加賀の潜戸」で生まれたと伝えられているが、鎮座地は恵曇郷の南東、佐陀川の約5km上流の鹿島町佐陀宮内に位置している。佐太大神も海岸部で誕生し、時代とともに内陸部に移動した神だと考えられる。
また、恵曇神社の南西1km。朝日山から続く丘陵の谷間にある志谷奥(しだにおく)遺跡から、昭和48年(1973)、銅鐸2口と銅剣6本が出土している。
弥生時代の青銅祭器が、縄文時代から続く神名火山や磐座信仰とどのように関係しているのかは不明だが、恵曇の海辺から内陸部を眺めてみると、縄文以来の海を生業とする漁労の民から、弥生の水稲農耕が経済の基盤となっていった時代の推移が垣間見られる。
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2016年4月25日 撮影
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松江市鹿島町恵曇にある江角の惠曇神社。
鎮座地名から「江角大明神」とも称されている。
もっとも海辺にある「同海辺社」の小祠。
案内板。
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