潜戸鼻灯台の下が「新潜戸」の西口洞門。遊覧船はこの穴に入っていく。


伝承によれば、勢いあまった金の矢は、沖に浮かぶ島まで射通し穴を開けた。
成長された猿田彦命(佐太大神)がこの穴を的に弓の稽古をされたので、沖の島は的島(まとじま)と呼ばれている。


「新潜戸」の巨大な洞内。3方に入口があり洞内は比較的明るい。左が北門、右が東門。


旧潜戸の船着場からトンネルを通り洞内を探索できる。
海側の開口部が幅5.5mであるのに対し、内部の幅は約20m、高さは10m以上、奥行きは約50mある。


旧潜戸の賽の河原。加賀の潜戸は神道、仏教双方の聖地とされている。
 島根半島の北部、日本海に面した加賀港から遊覧船に乗って、潜戸鼻(くけどはな)と呼ばれる岬の先端にある「加賀の潜戸(かかのくけど)」に向かう。船の定員は33名だが、この時の乗船客は私一人だけ。1500円の料金でおよそ50分、なんだか申し訳ない気がしてならないが、船は定刻通り、貸し切り状態のまま出航した。

 現代では、潜戸巡りも遊覧船によりお手軽に行えるが、小泉八雲の時代には大変な冒険であったらしい。八雲の『知られぬ日本の面影』に所載されている「加賀の潜戸」の冒頭には「「髪の毛三本動かす」だけの風が吹くならそれだけで加賀行は禁止になる」と記されている。八雲が加賀の潜戸を訪れたのは明治24年(1891)9月のこと。当時においては、日本海から吹き上げる西風、あるいは北西の風は、ことほど左様に危険な風として恐れられていたことがうかがえる。(『神々の国の首都』平川祐弘=編 講談社学術文庫)

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 遊覧船は、旧潜戸、新潜戸と呼ばれる2つの海蝕洞穴を周回する。
 最初に向かう旧潜戸は、別名「仏潜戸」とも呼ばれていて、洞内には大小の石が積まれた「賽の河原」があり、亡くなった幼子たちに手向けられたおもちゃや衣服、ランドセルなどが、昼なお暗い洞窟の奥深くまで所せましと置かれている。一昨年「恐山」で見た「一重つんでは父のため 二重積んでは母のため」と詠われる「賽の河原地蔵和讃」の世界とかさなり合う。

 一方の新潜戸は、東・西・北の3方に入り口を有し、高さ30m、幅30m、長さ200m、洞内を船が通り抜けられる巨大な洞穴である。出雲四大神の一柱・佐太大神(さだのおおかみ)の誕生の地といわれ、かつては「神潜戸」とも呼ばれていた 。
 西側の洞門から暗い洞内に入っていくと、左手の岩上に白木の鳥居が見えてくる。船のガイドさんの説明によると、鳥居の建つ岩が「誕生岩」と呼ばれ、佐太大神が生まれ、支佐加比売命(きさかひめのみこと、『古事記』では蚶貝比売(きさがいひめ))を祀る「潜戸大神宮」があった場所だという。
 「潜戸大神宮」は、『出雲国風土記』にみえる「加賀社」、『延喜式』の「加賀神社」のこととされ、現在は、遊覧船の発着港「マリンプラザしまね」から東に約800mほどいった、澄水(しんじ)川の右岸、島根体育館の手前に遷座されており、佐太神社(松江市鹿島町)の祭神である佐太大神の生母、支佐加比売命を主祭神とし、伊弉諾尊、伊弉冊尊、天照大神、猿田彦命を配神としている。

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 『出雲国風土記』嶋根郡条「加賀の神埼」の伝承によると、佐太大神の誕生時、母神である神魂命(かみむすび)の娘神・支佐加比売(きさかひめ)が大切にしていた弓矢が波にさらわれ流されてしまう。そこで支佐加比売は、生まれてくる子が夫の麻須羅神(ますらかみ)の御子であるならば、「失せた弓矢よ、出て来なさい」と祈念された。すると獣の角で作った弓矢が水のまにまに流れ出てきた。支佐加比売はこれをとって、生まれたばかりの佐太大神に矢を示し「これは、失った弓矢にあらず」と投げ捨ててしまった。するとこんどは、金の弓矢が流れ出てきた。支佐加比売はそれを取り上げ「この岩屋はなんと暗き窟かな」と申されて、金の弓矢で洞内の岩壁を射通された。すなわち御母神・支佐加比売の社は、この洞穴に鎮座しておられる。とある。

 ここで登場した支佐加比売(蚶貝比売(きさがいひめ))は、八十神(やそがみ)によって火傷を負わされて死んだ大国主命(おおくにぬしのみこと)を、赤貝の殻の粉を使って蘇生させた二柱の女神の一人として「赤猪岩神社」にも登場している。
 また、『出雲国風土記』の地名起源譚には、「かか」の地名は、金の弓矢で射通されたとき、洞内が光り輝いたことから「加加(かか)」と名付けられ、神亀3年(726)に「加賀」と改められたと記されている。読みは現在でも「かが」と濁らず、行政上の地名も「かか」のままである。

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 佐太大神の誕生説話について、潜戸をつらぬく金の弓矢は、雄々しく立派な様子をあらわす麻須羅神は男性器(太陽神)、洞窟は女性器の象徴とされ、暗い洞穴に矢を放つとは、太陽神とそれをまつる巫女との交合の儀式を意味するのではないかと考えられている。
 また、矢が射通される洞内は、母神・支佐加比売の胎内に見立てられ、支佐加比売は、大国主命を蘇生させた再生・復活の女神でもある。新潜戸は、生命の誕生、そして再生・復活の洞穴として、古代より地域の人々に信仰される聖地であったのだろう。

 旧潜戸が「仏の潜戸」と呼ばれ、ここに「賽の河原」が設けられたのは、『出雲国風土記』編纂時期のはるか後になってのことだろうが、これも、新潜戸の佐太大神の誕生説話にあやかって、幼くして死んだ子供たちの再生を願う心から生まれたものでないだろうか。

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2016年4月25日 撮影

「新潜戸」内の誕生岩と鳥居。



3月から11月にかけて、松江市島根町加賀の「マリンプラザしまね」から潜戸観光遊覧船が運行している。