木佐家の東隣りの一角に「要石」が祀られている。道路からも見えるが、気をつけないと植木等で見逃してしまう。


格子戸の奥が「要石」のある神域。この日は雨だったが、拝殿の屋根に助けられ、濡れずに撮影することができた。


板垣に囲まれた一間半四方の空間は、神域らしい厳かな雰囲気に包まれている。


石は6つあるが、どれが「要石」なのかは、よく分からない。
手前の小石は、毎年8月に行われる祭りの朝に、木佐家の当主が日本海の海岸から持ち帰り積み上げたもの。
 出雲市国富町(くにどみちょう、旧平田市の南西部)の旅伏山(たぶしさん)東麓にある木佐家の敷地内に「要石大神」と呼ばれる6つの石が祀られている。
 木佐家は、屋号を「簾(すだれ)」と称し、代々松江藩主が出雲大社の参拝や鷹狩の際に宿泊する本陣宿を勤めた出雲屈指の旧家である。

 この木佐家の東隣り、入り口に鳥居を配し、竹の垣根に囲まれた一角に、拝殿と一間半(2.73m)四方の板の玉垣に囲まれた神域が設けられている。
 拝殿と神域は、格子戸によって仕切られている。パンパンと柏手を打って拝礼し、そおっと格子戸を開ける。まず目に入るのは、鳥居とその奥に積まれている丸みのある小石の山。要石はその後方に半円状に並べられており、その中心に御幣が立てられている。
 わずか一間半四方の空間だが、どこか荘厳で清浄な空気を漂わせたおり、明らかに磐境信仰による祭祀の場であると思われる。

 要石の大きさ、形状はさまざまで、高さ数10cmの小さなものから、1mを超える立石状のものある。6つの石の配置については、人の手により、全体のバランスを考えて置かれているようにも見える。
 ところで、肝心の要石はどの石を指すのだろう? 一番大きな中央の石なのか、それとも6つの石を総じて要石と呼んでいるのか、委細はよく分からない。

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 格子戸の上に「風土記神跡 要石大神 祭神 八束水臣豆奴命」と書かれた扁額が掲げられている。
 祭神の八束水臣豆奴命=八束水臣津野命(やつかみづおみずのみこと)は、『出雲国風土記』の冒頭にある「国引き神話」の主宰神として登場する。

 「国引き神話」は、八束水臣津野命が、幅の狭い布のように小国であった出雲の国に、朝鮮半島の新羅(しらぎ)、隠岐島(おきのしま)、北陸から、余った土地を切り離し、「国よ来い、国よ来い」と綱で引き寄せ、出雲の地に縫い合わせたという、巨人神信仰の名残が隠見する壮大な物語である。
 また、記紀では「八雲立つ出雲」と歌ったのは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)とされているが、『出雲国風土記』では「出雲と号(なづ)くる所以は、八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ」と詔りたまひき。故、八雲立つ出雲といふ」とあって、出雲という国名の命名者は八束水臣津野命によるとされている。
 八束水臣津野命は、記紀にはまったく姿を現わさない神さまだが、出雲の国の礎を築き、「出雲」の国号や「島根(しまね)」、「意宇(おう)」の名付け親ともされる重要な神さまである。

 要石の由来については、扁額の傍らに大正7年の説明板が掲げられている。文字の判読ができない部分もあるが、おおよそは以下のとおりである(●は判読不能)。

 「出雲風土記に 八束水臣豆奴命 八雲立つ出雲国は狭布の雅国なるかも 初国は小さく作らせり 故に 作り縫んと詔り給ひて 日御碕より三保関の崎に至る  此の北山一帯を四度に引き来りて 出雲国を作り添へ給ひて 地の動揺せざらん為に 此所に石をさし立給へる 即ち此の要石なり 故に村名を国留と書きしを 後に国富と書けり 此の地地震の患なし 仁寿元年(851)五月● 大地震以還地震鎮護の神と称え奉る 又 地すべりある地に此の処の石をいただき帰り その地に納めければ地すべり止むという」

 要するに、神話が語る「国引き」のときに、出雲の国が動かないように打ち込んだ杭が、この要石であり、国をつなぎ留めたことから、村名を「国留」とし、後に「国富」に変わったとされている。
 また、地すべりある地に、ここの石を持ち帰ると「地すべり止む」といわれるのは、丸い平石のことを指すのだろう。要石には、土地を鎮める霊威があり、そこに手向けられた丸平石にも、霊力が宿っていると信じられたためだろう。現在でも、地域の家の新築の際には、要石の前に積まれた丸平石を持ち帰り、祀っているという。

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 要石といえば、稲佐の浜で大国主に「国譲り」を迫った建御雷神(たけみかづちのかみ)を祀る鹿島神宮と経津主神を祀る香取神宮が知られている。両神宮の要石は、地震を起こす大鯰(なまず)の頭を押さえ込んでいる霊石とされているが、この伝承は江戸時代初期の頃に広まったものであるらしい。
 木佐家の要石にナマズの伝承は出てこないが、地震を封じ込めるという点では共通している。

 江戸時代の享保年間(1716〜1735)に編纂された『雲陽誌 』楯縫郡国留「旅伏権現」の項にも、要石に関する記載があり、上記と同様の地名のいわれが記されているが、このような伝承が、いつごろ生まれ、誰によって創祀されたのかについては、口碑による伝承のみで、出所は明らかになっていない。

 おそらくは、江戸時代に広まった要石の伝承が、「国引き神話」に付会させたものと推察されるが、元々は、木佐家の祖霊神を祀った神域だったのではないだろうか。

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2016年4月28日 撮影

「風土記神跡 要石大神 祭神 八束水臣豆奴命」の扁額。


扁額の横にある大正7年に記された「要石の由来」。