||| 要 石 ・ 鹿 島 神 宮 / 香 取 神 宮 |||


鹿島神宮本殿。平安時代後期に編纂された『大鏡』に、中臣鎌足は鹿島神宮の神官だったと記されており、
中臣氏(藤原氏)は常陸国出身とする説が有力視されている。
春日大社(奈良県奈良市)には、鹿島・香取の二神を勧請し一族の氏神として祀られている。


常陸国一ノ宮・鹿島神宮の要石。あまりの小ささに驚いてしまう。


瑞垣のなかに鎮座する要石。
 利根川を挟んで南北に対峙する鹿島・香取の両神宮に「要石(かなめいし)」は鄭重に祀られている。
 鹿島の要石は鏡餅状で、径約30cm、高さ約7cm、中央が少し凹んでいる。香取の要石は、丸みを帯びた頭頂状をなし、径約30cm、高さ約30cm。どちらも瑞垣に囲まれて、地表から突き出た出臍のようにチョコンと頭をのぞかせている。

 これがあの名高い霊石かと思うと、拍子抜けしてしまうほどの小さな石だが、伝承によれば、見えているのは氷山の一角で、地中に隠れている部分は測り知れない大きさであるという。かの水戸黄門が家来に掘らせてみたが、鹿島の要石は「七日七夜」、香取の要石は「三日」掘っても根元を見ることができなかったという逸話もあり、見かけによらぬやんごとない石といえる。

 鹿島神宮にはもう一つ、「鏡石」と呼ばれる霊石がある。本殿裏のご神木(大杉)の後方にあり、境内マップにも記されているが、なぜかそこは一般の見学者は立ち入れない区域となっている。社務所に寄って鏡石について聞いてみると、大きさは約80cmほどの平たい円盤状で、上部が鏡のようにつるつるしており、由来についてはあきらかでないという。本殿裏という場所からみて、要石に劣らぬ重要な霊石と思われるが、見ることがかなわず残念だった。

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 両神宮の創建はともに神代の昔とされ、社伝によると鹿島神宮は神武天皇元年の紀元前660年、香取神宮は神武天皇18年の紀元前643年と伝えられるが、これでは卑弥呼の時代より800年以上も前となり、史実としてはそのまま受け入れられない。

 養老年間(717〜724)に撰進された『常陸国風土記』の香島郡条に、大化5年(649)孝徳天皇の時代に、中臣氏らに命じ「神の郡」を置かせ、「天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社」の三社を合わせて「香島の天(あま)の大神(おおかみ)」と称したとある。また、天智天皇(在位668〜671)の時代に、初めて使人をつかわし神の宮を造ったとあり、これらの記載から、鹿島神宮の創建は7世紀ころ、香取神宮も同時期に創建されたものと思われる。

 鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、香取神宮は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)である。二神ともに、イザナギが火の神・軻遇突智(かぐつち)を斬ったときに流れ出した血から生まれた神で、国譲りの神話ではペアとなって出雲へ降りたち、オオクニヌシに国譲りを強要する神である。
 古事記では、タケミカヅチの別名がトヨフツと呼ばれることから、もともとは同一の神とする説(谷川健一・日本の神々)もある。

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 タケミカヅチとフツヌシが、なぜ大和から遠く離れたこの地に祀られなければならなかったのか。
 両神がこの地に現れたのは、鹿島から約70km北の大甕に住む甕星香々背男(みかぼしのかがせお)と称する悪神を討伐するためだった。
 『鹿島神宮』(学生社)の著者・東実氏(元宮司)は、タケミカヅチが鹿島に入ったルートとして、「行方郡を通った模様で、いまの潮来町大生原(おうはら)に大生(おう)神社があり、社伝に鹿島より早くタケミカヅチが見えられたとあり、経由された地と推定できる」と述べている。大生神社は、鹿島神宮の西北西約10km、潮来市大生に鎮座し「鹿島の本宮」とも呼ばれる古社である。

 「大甕倭文神社」で記したように、「天津甕星(甕星香々背男)は、東国地方の陸地はおろか、海上にまで一大勢力をもっており、鹿島・香取の神も、この勇猛なる大勢力の前に為すすべがなかった。
 鹿島・香取は、8世紀以降の蝦夷征討の水軍の発信基地であり、東国経略の拠点であった。大和朝廷の東国制圧に際し、天津甕星は真っ先に封じ込めねばならない神だったである。」

 当初、鹿島の神は『常陸国風土記』にある「香島の天の大神」であり、タケミカヅチとは結びついていなかったが、大同2年(807)に成立した『古語拾遺』には、祭神はタケミカヅチで、フツヌシを下総の香取神宮にいます神と記されている。
 記紀にもタケミカヅチが鹿島に祀られたという記載がないことから、ヤマト王権の東国進出の際、鹿島・香取の重要性が増すことで、タケミカヅチ・フツヌシの両神は、東方制覇成就のために朝廷側から送り込まれた神であったと考えられる。



鹿島神宮 奥宮。
タケミカヅチの荒御魂(あらみたま)が祀られている。
『延喜式』神名帳のなかで、鹿島・香取の両社は、
伊勢神宮とともに「神宮」の称号を与えられている。
神名帳のおいて「神宮」と呼ばれるのは
この三社のみであるから、鹿島・香取の両神宮が
東国を代表する社として、
朝廷から特別に扱われていたことがわかる。


上古の鹿島想定図(『鹿島神宮』学生社より)
海をはさんで霞ヶ浦の出入りを監視するような
位置にある鹿島・香取の両神宮。

香取神宮・楼門。本殿と同様元禄13年の造営された。本殿は平成の大修理中だった。


下総国一ノ宮・香取神宮の要石。鹿島の要石は大鯰の頭を、香取の要石は尾を押さえているという伝承もある。


瑞垣の中にある香取神宮の要石。
 要石は地震を起こす大鯰(なまず)の頭を押さえ込んでいる霊石として知られているが、この伝承はいつ頃から広まったものなのか。残念ながらそのルーツはつまびらかになっていない。「ウィキペディア」などの一部資料に、
 「ゆるげども よもや抜けじの要石
    鹿島の神のあらん限りは」
 という地震歌が『万葉集』に詠まれており、あたかも7〜8世紀から、鹿島の神が地震の神であったとみられる記載があるが、この歌の初見は『万葉集』ではなく、江戸時代初期に書かれた『仮名草子』のまちがいである。

 鎌倉時代、無住道暁(1226〜1312)によって書かれた『沙石集』の拾遺に、鹿島の社に参詣した右大弁の藤原光俊が、三日間平な石をさがしたが見あたらなかった。そこで、古老の神官に問うたところ、神官は丸くて平な二尺ばかりの石を御殿のうしろの竹林の中から見つけた。それをみた光俊は「尋ねるかね 今日見つるかなちはやぶる 深山の奥の石の御座(みまし)を」と詠み、「これは大明神天よりあまくだり給ひて、時々座禅せさせ給石なり 万葉集のみましと云これなり」と、感涙したとある。
 この記述から、要石は別名「石の御座(みまし )」「座禅石」「思惟石」とも呼ばれ、この時代は神が降臨する磐座として認識されており、地震との関わりは見られない。

 要石が広く知られるようになるのは、江戸時代の安政の大地震(1854年10月4日・マグニチュード8.4)の時とされている。この時に、鹿島神(タケミカヅチ)─地震鯰─要石の組み合わせが生まれ、これを題材として描かれた「鯰絵」が大量に出版されている。これを鹿島事触(ことぶれ)と呼ばれる御師集団が、鹿島の神託と称して告げ歩き、各地に広めたといわれている。
 右に掲げた「鹿島要石真図」では、タケミカヅチが、大鯰の頭を刀剣で押さえつけているが、本来はタケミカヅチ、フツヌシともに地震・大鯰とは無関係の神である。
 ちなみに安政地震が起きた10月は神無月であり、鹿島の神は出雲に出掛けていて留守であったから、その隙に地震が起きたという取って付けたかのような伝承もある。

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 鹿島神宮の宝物館に「悪路王の首」と称される木像が展示されている。説明には「平安時代、坂上田村麻呂将軍が奥州に於て征伐した悪路王の首を寛文年間に口伝により木製で復元奉納したもの。悪路王は大陸系の漂着民族とみられるオロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)とみる人もいる」とある。

 「悪路王の首」はもう一つ、茨城県城里町高久の鹿嶋神社にも残されている。岩手県平泉町の達谷窟(たつこくのいわや)で成敗した悪路王の首を都に持ち帰る途中、この鹿島神社に奉納したものと伝えられている。実際に首のミイラがあったといわれるが、現在見られるのは高さが50cmほどの首像である。
 悪路王の首像が二つも鹿島に残されていることは、鹿島・香取が武神タケミカヅチ・フツヌシを祀り、蝦夷征討の軍事上の前線基地として、征夷の「要」役を担ったことによるものだろう。

 古くは磐座と認識されていた霊石が、蝦夷を鎮める「要」の石となり、江戸期に至って地震を治める要石に変わっていった……。
 荒れさわぐものを封じ込めるのに、石の大きさは関係ない。むしろ小さな石であるからこそ、そのギャップを埋めるべく見る側のイメージは喚起され、壮大深遠な霊石となって、伝承も膨れあがっていったと思われる。もちろん、鹿島・香取の神宮としての重みがあってこその芸当であるが。

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2013年6月2日 撮影


建御雷之男神「鹿島要石真図」。
江戸の地震をおこした鯰が鹿島明神に剣でおさえられ、
その前で日本各地で地震をおこした鯰があやまっている。




宮城県加美町の鹿島神社にある要石。
昭和48年により奉納されたものという。


鹿島神宮・宝物館にある悪路王の首(木像)。寛文4年(1664)に奥州の藤原満清が奉納したものと伝えられる。
悪路王は達谷窟に城塞を構えて悪事を働き、坂上田村麻呂に討伐される賊徒(蝦夷)として
『吾妻鏡』(鎌倉時代後期)に登場する。
悪路王を蝦夷の族長アテルイと同一視する説もあるが、これについては確たる裏づけはなく、真偽のほどは定かでない。


香取神宮【案内板】