地元では「立石(たていわ)さん」の愛称で呼ばれている立石神社の磐座。地区名は「たていし」と読む。


明治の初めに鞆前神社(坂浦町)に合祀されるが、地元民の強い要望により、昭和10年代にその分霊を移したという


「出雲の石神信仰を伝承する会」や地元有志の尽力で、立石神社の存在が最近にわかに脚光を浴びている。


立石の前にある平坦地。大正年間にはここに拝殿があったという。
 この日、天気予報では午後には雨が上がると言っていたが、日本海からの横殴りの風雨は一向に弱まらない。坂浦町の佐香コミュニティセンターの1kmほど先にある立石(たていわ)神社の路肩駐車場に車を停めて、小雨になるのを待つ。1時間ほどで風は少し収まってきた。雨カッパを着て、そぼ降る雨のなか、樹林に覆われた山道を下っていく。

 ころばぬように、足もとに気をつけながら歩くこと約5分、林地を過ぎると突然視界が開け、右手に巨大な自然石が姿を現した。
 昨日見た、仏経山の「伎比佐(きひさ)の大岩」が高さ8mだった。それをはるかに超える大きな岩が3つ、まるで壁のようにそそり立っている。磐座としては横綱級だろう、その強烈な存在感に圧倒される。

 神社といえば、聖域の入口を示す鳥居と狛犬、そして参道の先にある社殿を思い浮べるが、立石神社には、こうした神社特有の建造物はひとつも見られない。唯一、神域を表すものとして、細い竹に挟まれた御幣と、そこに張られた1mほどの注連縄があるだけである。

 こうした鳥居や社殿をもたない、いわば、神社以前ともいえる原初的な形態をもつ神社では、山そのものが神であり、特定の岩が神の「依り代」とされていた。
 山から神を迎える「祭り」のときに、簡素な神殿を仮設して、「祭り」が終わると、仮設の神殿はすぐに取り払われる。神さまは「祭り」のときだけこの地に降臨され、「祭り」が終われば、再び山に戻られる。したがって、常住することのない神さまのために、常設の社殿は必要ないと考えられていたのである。

 立石神社の例祭は、毎年9月の第1日曜日に行われている。参加する氏子は約30軒あり、その半数が「立石(たていわ)」にちなんだ「立石(たていし)」の姓を名乗っているというのも興味深い。
 例祭の様子は、佐香コミュニティセンターのホームページに掲載されている。

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 立石神社については、荒神谷博物館副館長の平野芳英氏が「出雲の石神信仰を伝承する会」とともに平成24年(2012)に測量調査を行い、その経緯を『古代出雲を歩く』(岩波新書)に詳述されている。
 本書のなかで、立石神社は地元民の愛称である「立石(たていわ)さん」で呼ばれており、本記事でも以下それに倣う。

 平野氏と立石さんの出会いは、平成8年(1996)の初冬、『アサヒグラフ』の記者とわずかな情報を元に山中を探訪し、辿り着いたのが最初であるという。
 以来20年にわたり出雲の石神調査を続けてこられ、その過程で、江戸時代の地誌『雲陽誌』(1717年)の楯縫郡坂浦の条にある「山神 岩の高さ四丈、周二十間、三に分けてあり、いかなる故にや、土人御所の立岩といひて、まつるなり。」の記載に注目される。
 山神の岩の高さは四丈(12m)、周囲は二十間(36m)、3つに分かれ、いかなる理由か、地元民はこの山神を「立石」といって祀っている。ということだが、ここで、『雲陽誌』の時代には、立石は「山の神」と解されていたことを確認される。

 平成24年の調査では、岩の前に約11×5mの平坦地があり、そのなかに、6×4mほどの自然石の礎石列が確認された。これは大正年間にあったといわれる拝殿の跡とみられている。また、拝殿跡の先には、近代以降に盛り土をして造成された水田の跡があり、ここから江戸時代中期のものとみられる染付陶器とかわらけ(素焼きの陶器)の細片が出土している。

 岩の大きさは、拝殿から見て中央の岩を1号、拝殿左の岩を2号、右の岩を3号として、
 1号立石 21.5×8.5m、高さ11.0m。
 2号立石 9.1×18.6m、高さ10.6m。
 3号立石 11.7×10.9m、高さ12.7m。
 岩質は流紋岩。もとは1つの石であったと推測されている。

 立石さん周辺の景観も、半世紀ちょっとの間に、ずいぶんと変わってしまったようだ。
 現在では、駐車場前の山道を降りていき、参拝を済ませると、また来た道を引き返しているが、かつては、東西に通じる道があり、立石さん前の道は、地元民の生活道路であったという。
 昭和30年代に、立石さんの背後に舗装道路が開通する。これによって、立石さん前の道を通る人がいなくなり、自然のままに片方の道は雑木にふさがれてしまったのだ。
 また、立石さんの前方も、今では竹やぶに遮られて見通しがきかないが、かつては日本海まで見通すことができる、陽当りのいい場所だったという。

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 立石さんの祭神については、『雲陽誌』に「山神」を「立岩といひて、まつるなり」とあることは先に述べたが、現在の祭神は、大国主命の孫にあたる多伎都比古命(たきつひこのみこと)とされている。『雲陽誌』の時代には、固有の神名をもたなかった立石さんが、いつから多伎都比古命を祀るようになったのか。

 この疑問に対して平野氏は、立石さんの祭神・多伎都比古命説の出所として、松江藩の歴史研究家・渡部彝(つね)による『出雲神社巡拝記』(天保4年(1833))を挙げておられる。『雲陽誌』から116年後に発行された、この『巡拝記』には「立石」について、次のように記されている。
 「当坂浦から多久谷村へは山越えをする。雲見峠というところを通る。この峠に石神というところがある。高さ一丈、周囲が一丈ばかり。そばに小石神がたくさんある。この石神を地元の人は、立石ともいう。これは、多伎都比古命の神跡である。」

 『巡拝記』では、立石の大きさが「高さ一丈、周囲が一丈ばかり」となっている。この点を留意していただき、『出雲国風土記』の楯縫郡の条にある神名樋山(大船山)の石神についての記述を見ると、
 「神名樋山、〈中略〉峰の西に石神あり。高さ一丈、周り一丈なり。道の傍らに小さい石神が百余りある。〈中略〉いわゆる石神は、即ちこれ多伎都比古命の御依代なり」とある。

 石の大きさは『巡拝記』と『出雲国風土記』、どちらも高さ一丈(3m)、周り一丈(3m)で、そばに小さな石神がたくさんある、という部分が一致している。
 一方、『雲陽誌』に記された立石の大きさは高さ四丈(12m)、周囲二十間(36m)で、現在の測量値に近い。こうした食い違いから、『巡拝記』の立石は、神名樋山(大船山)の石神と混同されたもので、ここは平野氏の考察どおり、『巡拝記』の祭神・多伎都比古命説は、『出雲国風土記』からの誤引用と推して、まちがいないだろう。

 神社における祭神の変更は、時代の変遷のなかではしばしば見られることである。立石さんの起源や縁起は見つかっておらず、詳細は不明であるが、「山の主」を想起させる立石さんの威風堂々たる姿には、漠然とした自然信仰を基盤にした「山の神」が、ふさわしいように思える。立石さんの祭神は、人々の日常生活の中で生きつづけてきた「山の神」とする『雲陽誌』の記述を採用したい。

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2016年4月28日 撮影

立石神社入口。ガードレールの切れ目から、
細い山道が立石神社まで続いている。






神域を表すものは、細い竹に挟まれた御幣と、
1mほどの注連縄だけである。


「公益財団法人 いづも財団」の助成金により設置された案内板。