日本海沿岸から約20km内陸に入った中国山地の山ふところ。左に八重山神社の鳥居が見える。


随身門と名工・坪内平七郎利忠作の狛犬。


新しくなった本殿。元は、享保19年(1734年)に松江藩によって造営された。本殿の中に金鶏の像が祀られている。


八重山神社の主祭神は伊邪那美命、天照皇大神。
配祭神に建速須佐之男命、速玉男之神、予母津解之男神、神大市比売命、大山祇大神、大歳御祖大神が祀られている。


社殿背後の岩壁に「金鶏の岩屋」と書かれた木片が見える(写真中央のやや下にある)。
 松江市から広島市に至る国道54号線から雲南市掛合(かけや)町の「八重滝」に向かう市道に入り、八重山川の清流に沿った細い山道を約2kmほど走る。道中に案内表示もあるので、迷うことなく八重山神社の路肩駐車場に着いた。

 八重山(669m)の中腹にある八重山神社には、ここから石段を約300段ほど上らなければならない。八重山の名の由来については、『角川日本地名大辞典・島根県』に「旧記によると、八色の雲がこの峰に起こることから往時は八雲山と称したが、いつの頃からか八重山というようになった」と書かれている。

 参道に入ると程なくして金屋子神社の小さな祠があり、さらに急峻な石段を上っていくと随身門が見えてくる。随神門の中にある髄神像とその手前に置かれた異形の狛犬は、江戸時代中期の石見の名工・坪内平七郎利忠の作で、正徳3年(1713)に寄進されたもの。石は世界遺産・石見銀山の「五百羅漢像」にも使われている「福光(ふくみつ)石」で、狛犬ファンには見逃せない逸品であるという。
 険しい参道はまだつづく。急な石段だが不思議と疲れないのは、木々に覆われた参道の涼やかさによるためだろう。最後の80段ほどの石段を上りつめたところに本殿があり、その背後に高さ45mの巨大な岩壁がそそり立っている。

 社殿は2014年に遷宮されたもので、まだ新しい。その背後にそびえる岩壁を見上げると、約20m上方に「金鶏(きんけい)の岩屋」と書かれた小さな木片が掛けられている。よくよく注意してみなければ見落としてしまいそうである。

 社伝によると、その昔「鷲尾猛(わしおたける)」という邪神がこの岩屋に住み、悪行を働いていたという。夜な夜な金鶏にまたがって空を飛び、里人の夢の中にあらわれて恐ろしい夢を見させ、不眠にさせて苦しめていた。この噂を伝え聞いた須佐之男命(すさのおのみこと) は、簸(ひ)の川の八岐大蛇(やまたのおろち)退治に続いて八重山に登り、邪神・鷲尾猛を成敗する。以来、鷲尾猛は改心し、金鶏に姿を変えて里人に尽くし、集落に平和が訪れたという。
 須佐之男命はこの地に、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀り、稲田姫とともに須佐(出雲市佐田町)に行幸されたという。

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 いわゆる「金鶏伝説」とは、山中や塚のなかに黄金の鶏が埋められていて、そこから鶏の鳴き声が聞こえてくるという伝説である。
 一説によると日本の金鶏伝説は、新羅の「鶏林(けいりん)伝説」と結びつけられたもので、新羅系渡来人の居住したところに多く残されているという。
 鶏林伝説は、「三国史記」に伝わる新羅国の始祖伝説で、新羅の第4代脱解(タレ)王のとき、林の中に金の櫃(ひつ)が置いてあり、そのかたわらで白いニワトリが鳴いていた。王がこの櫃を開けてみると、なかに男児がいた。その子は閼智(アルチ)と名付けられ、金櫃にちなみ「金」氏の姓が与えられ、のちの新羅王族の始祖となったという。この林は鶏が鳴いたことにちなんで「鶏林」と呼ばれ、新羅国の異称の一つになったといわれている。

 金鶏伝説は全国各地に見られるが、近いところでは松江市大庭町の「大庭鶏塚(おおばにわとりづか)古墳」に伝わっている。伝承によると、正月に金の鶏が鳴き、それを聞いた人は長生きをするといわれている。当古墳は、出雲地方最大級の大型方墳で、辺長42m、高さ10mを測り、6世紀中頃に築かれたものと推定されている。
 ほかにもニワトリに因む伝承として、松江市美保関町の美保神社の氏子は、祭神であるえびす様(事代主神)の嫌いな鶏肉や鶏卵を食べない風習があるという。

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 また、八重山神社は牛馬の神様として信仰を集めており、本殿の横に昭和28年に寄贈された牛のブロンズ像が奉納されている。
 飯石郡は古くから「たたら製鉄」が盛んな地域で、たたら製鉄の原料となる砂鉄や炭を運ぶのに、牛馬は欠かせなかったという。ちなみに、須佐之男が降臨した新羅国の曽尸茂梨(そしもり)という地名は、朝鮮語で「牛頭」を意味し、須佐之男は牛頭天王(ごずてんのう)と同体であるとされている。

 出雲市塩津町の「石上神社」でも述べたが、スサノオを新羅(しらぎ)からの渡来神とする説は、多くの研究者が指摘するところである。鉄器は弥生時代早期に日本へ伝来し、古墳時代後期には国内で鉄の生産が始まった。『出雲国風土記』にも飯石郡と仁多郡など奥出雲で鉄がつくられていたことが記されており、当社が鎮座する掛合町では、古墳時代の製鉄遺跡が発見されている。
 八重山神社の金鶏伝説も、タタラ製鉄と深い関連性を示すものといえるだろう。

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2016年4月29日 撮影


本殿までの最後の80段の石段。


参道にある金屋子神社の祠。
寛永10年(1633)の「出雲国絵図」に金山権現とあり、
祠のかたわらにある坑道で金を採掘していたという。

牛馬の守護神として崇敬され、4月には春祭り、9月には秋祭りがおこなわれる。