昭和15年、当時の町長により「黄泉平坂 伊賦夜坂 傅説地」の石碑が建てられ、伝承地のひとつに加えられた。


黄泉比良坂の伝承地には「千引石」を模した3つの石が置かれている。


「この先塞の神 この小道伊賦夜坂」の看板。追谷坂と呼ばれる200mほどの山道は揖屋附谷地区に通じている。


揖夜神社・拝殿。伊邪那岐命・大己貴命・少彦名命・事代主命を主祭神とし、武御名方命・経津主命を配祀する。


揖夜神社・本殿。大社造であるが、内部の造りは出雲大社とは逆の向きになっている。

 出雲の国には、死者の国を想起させる場所が多く点在する。記紀神話の3分の1は出雲神話で占められているが、その中でも死に関する事柄についは、そのほとんどが古代の出雲を舞台として展開されている。

 記紀神話を成立させた大和朝廷から見ると、出雲の国は乾(いぬい=西北)の方向にあって、古代には、西北は祖霊が去来し、鎮まるところと考えられ、出雲は「根の国」「黄泉の国」と呼ばれる闇の世界と位置づけられてきた。
 しかし、大和の西北には、出雲以外にも多くの国がある。その中からなぜ出雲の国が選ばれたのか? これが古代史の大きな謎の一つとなっている。

 これまで、出雲周辺からめぼしい考古学上の発見がなかったために、「出雲」は記紀によってつくられた机上の創作であり「神話上の土地」と考えられてきた。ところが、昭和59年の神庭荒神谷遺跡、平成8年の加茂岩倉遺跡で大量の銅剣・銅鐸が発見され、出雲が古代史を考えるうえで特別な地域であったことが明らかとなり、もはや「出雲神話」を単なる創作と切り捨てることはできなくなってきた。『古事記』には、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の冥界訪問神話がある。そこには、出雲を「黄泉の国」と位置づける次のような神話が語られている。

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 伊邪那岐とともに、国土と多くの神を生み落とした伊邪那美(いざなみ)は、火の神迦具土神(かぐつちのかみ)を産むことでミホト(女陰)を焼かれ、黄泉の国(死者の国)へと旅立っていった。
 妻の死を嘆き悲しむ伊邪那岐は、伊邪那美を連れもどそうと黄泉の国に向かう。伊邪那美に再会した伊邪那岐は、一緒に戻ってきてほしいと願うが、伊邪那美は、すでに「黄泉戸喫(よもつへぐい、黄泉の国の火で作った食べ物を食べること)」をしたために、帰ることが難しい。黄泉津(よもつ)大神と交渉するので、その間は「決してなかを覗き見てはいけません」と約束をさせて御殿内に姿を隠した。しばらく待っても伊邪那美は帰ってこない。しびれをきらせた伊邪那岐は、約束を破り、櫛(くし)の歯を折って、それに火を灯して奥を覗いてしまう。
 そこに現れたのは、全身を蛆(うじ)に覆われ、恐ろしい雷神が各所にうごめく醜悪な伊邪那美の姿であった。畏れて逃げだす伊邪那岐に、「私によくも恥をかかせた」と言って、黄泉醜女(よもつしこめ)、さらに八柱の雷たちに逃げていく伊邪那岐の後を追わせる。
 追われた伊邪那岐は、髪に巻いていた鬘(かずら)や櫛を投げ、それを野葡萄(のぶどう)や筍(たけのこ)に変え、醜女がこれを食べている間に逃げのびた。さらに、黄泉軍(よもついくさ)に追われたときには、十拳剣(とつかのつるぎ)を後手に振りつつ逃げ、黄泉比良坂(よもつひらさか)まで逃げ着くと、かたわらに生えていた木から桃の実を取って投げつけ、その呪力をもって追っ手を撃退させた。
 伊邪那岐は黄泉の国との境に「千引(ちびき)の石」を置いて結界とし、ここで2人は別離の言葉をいい交わす。伊邪那美は「このようなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を、一日に1000人を殺しましょう」。すると伊邪那岐は「あなたがそうするなら、私は一日に1500の産屋(うぶや)を建てましょう」と宣言する。

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 神話の舞台となった黄泉比良坂について、『古事記』には「故に、其の謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜(いふや)坂と謂ふなり」と記されている。現在の松江市東出雲町の揖屋(いや)平賀(ひらか)地区が「黄泉比良坂」の伝承地とされており、当地に鎮座する式内社の揖夜(いや)神社の存在がその論拠とされている。

 揖夜神社は、伊邪那美命を主祭神とし、熊野大社と並んで出雲地方で最も古い社で、意宇(おう)六社の1つでもある。『出雲国風土記』には「伊布夜(いふや)社」、『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡には「揖屋(いや)神社」の名で登場する。
 また『日本書紀』斉明天皇5年(659)の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社(いふやのやしろ)に噛み置けり」(また、犬が死人の腕を喰いちぎり、言屋社(伊布夜社)に置いていった)と記されており、これは天皇崩御の予兆であるとされるている。なんとも不気味なこの話が、黄泉比良坂と揖夜神社を結びつける死のイメージとして注目されている。

 黄泉比良坂の伝承地とされる一画は、揖夜神社から直線距離で南東に約700m、国道9号から数100m南に入った山のふもとにある。2本の石柱に張られた注連縄の先に「神蹟 黄泉平坂 伊賦夜坂 傅説地」の文字が彫られた石碑と「千引石(千人でやっと引き動かすことのできる大きな石)」を模した3つの石が置かれている。これらは、昭和15年(1940)、当時の町長であった佐藤忠次郎(佐藤造機株式会社(現三菱農機株式会社)の創業者)が、皇紀2600年の記念事業として建てたもので、「千引石」もこのとき、もしくは後になって置かれたものである。

 島根県内には、黄泉比良坂以外にも伊邪那美の葬られた場所として、「出雲国と伯耆国との境にある比婆の山」(安来市)があり、伊邪那美の陵墓と伝えられる「岩坂陵墓参考地」(松江市八雲町 明治33年宮内庁により指定)、伊邪那岐が黄泉の国から逃げ帰る途中で「十拳の剣」を振るって追っ手を払ったとされる剣山(松江市八雲町)、『出雲国風土記』出雲郡の条にある「黄泉の穴」といわれる猪目(いのめ)洞窟(出雲市)などの伝承地がある。
 他方、『日本書紀』では、熊野の有馬村の「花の窟」が伊邪那美を葬り、祭ったところとされている。

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2016年4月25日 撮影

「伊賦夜坂」といわれる山の中の小道。


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