巨石の上に建てられた「厳島神社」社殿。下は社殿の内部。弁財天と蛇の絵が奉納されている。

 赤い鳥居をくぐり、杉の木立に囲まれた参道を歩く。神社社殿までわずか10分余、さほどの坂道でもないが、なさけなくも心臓はバクバク。いまにも止まりそうだ。
 厳島神社(名草弁天)に詣るまえに、参道の脇を流れる清水で顔を洗い、休憩。息を整える。

 弁財天といえば、江の島や琵琶湖の竹生(ちくぶ)島、安芸の宮島の三弁天にみられるように、池や海の水辺に祀られることが多い。こんな山中になぜと思うが、案内板には「弘仁年間( 810〜824 )空海上人が、白い大蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た大師は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勧請し、祠を建て、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まり……」とある。
 明治の廃仏毀釈によって弁財天を祀ることができなくなり厳島神社となった。

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 社殿は巨石の上に建てられている。奈良県は奥吉野の天河大弁財天の社殿の下にも、神武天皇が祈ったとされるが磐座(いわくら)があるといわれるが、ここ名草では、社殿と磐座が一体になって鎮座している。
 社殿周辺には、社殿から橋がで結ばれた「御供(おそなえ)石」と社殿手前の宝之泉と呼ばれる池の中におむすび形をした「弁慶の割石」がある。

 ここから5分ほど歩き「奥の院」へ上がる。


本殿から「御供(おそなえ)石」に橋が渡されている。
下部の八の字状の岩の隙間が「胎内くぐり」の出口。


 高さ約11m、周囲約30m、名草随一の巨石である「御供石」。親子連れが「胎内くぐり」に向かっている。


弁慶が石の上に仁王立ちになり、錫杖で突き割ったという伝えが残る「弁慶の割石」。高さは約2m、幅約3m。
▼▼▼ここから巨石群のある「奥の院」


右の石が「御船石」。下部は見事に水平に削りとられている。左上に祠が見える。


明らかに人の手により穿たれたと思われる方形の穴が並ぶ不思議な岩。
 「名草巨石群」に関する情報は、ネットと案内板による情報しかもちあわせていない。とりあえず、それらの情報を以下にまとめてみる。

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●大古、水成岩(堆積岩)の地層があったこの地に、地下からマグマが盛り上がってくる。マグマはおよそ10万年の歳月をかけて、地表や地下で冷え固まり、巨岩群のもととなる直径1.5kmほどの花崗岩体を形成した。主な鉱物組成は、石英30〜40%、斜長石33〜52%、カリ長石16〜19%、黒雲母6〜7%の花崗閃緑岩である。その後、この岩盤は粗粒の花崗岩の節理(割れやすい石)にそって風化し、玉ねぎ状に割れ、水に洗われ風化した結果、中心部が球状に残留して、巨岩の累積した形となって残った。
●名草巨石群は、学術的にも方状摂理をもつ粗粒の花崗岩に特有の風化状態を示す貴重な資料として、昭和14年に国の天然記念物に指定されている。

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 名草巨石群は、10万年の歳月がつくりあげた神秘の景観ということになる。はて、10万年前とはどんな時代だったのか?
 我々ホモ・サピエンスの登場が10万年前とする説がある。古富士火山が噴火を始めて、現在の富士山の土台がつくられた時代ともいわれる。足利市の西に位置する赤城山、榛名(はるな)山なども、大規模な噴火活動をおこなっていただろう。火山の噴火によって地表にもたらされた火山灰が、大気中を運ばれて降り積もり関東ローム層を形成していった。

 名草巨石群は、現在の弁財天が祀られる遙か彼方の昔から、特別な場所として崇拝されていたのだろう。巨石の上の社殿も、岩を割り成長する「石割楓」(写真下)の存在も、10万年の歳月のなかではつい先日の出来事のようなもの。この地は壮大な時間が内蔵された記憶の場なのだと実感する。

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2005年5月22日撮影
積もった土を取り除きボールペンを突っ込んでみた。
方形の穴は意外と深く、約10cmほどあった。


カエデの木が巨石に喰い込んで根を張った「石割楓」


【案内板】