弁慶茶屋を過ぎると「弁慶七戻り」(写真上)、「高天原」、「母の胎内くぐり」(写真下)と奇岩がつづく。

 江戸時代の国学者・平田篤胤(ひらた・あつたね/1776〜1843)は、天狗に誘われて仙界を探訪したという超能力少年?仙童寅吉と出会い、詳細な聞き書きを残している。その中に筑波山系には「岩間山には十三、筑波山には三十六、加波山には四十八」の天狗が止宿していたとある――。
 現代の筑波山は、男体山(標高871m)へはケーブルカーで、女体山(標高877m。いわるゆノミの夫婦)へはロープウエイで登頂できる。
 かつては修験の行場として知られた霊山だが、今ではハイヒールでもOK。すっかり俗界の山となってしまった。

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 朝8時、筑波山神社に参拝し、女体山をめざし登りはじめる。1時間余登って「弁慶茶屋」に到着。なんとここから富士山が見える。
 『常陸国風土記』に、ある神が日暮れになり宿を請うが、富士山が断ったために「冬も夏も雪ふり霜おきて、寒さしきり、人登らず、飲食を供えるものがない」と呪詛されてしまう。一方、筑波山ではこの神を歓迎したため「人民は神山に集い寿き、供え物もゆたかで、日に日に栄える」と記されている。
 山頂を雪に覆われた富士山を眺めつつ、今日の絶好の登山日和を喜びたいが、石の撮影にはコントラストが強すぎ悪条件となる。柔らかな光が欲しいが、秋の空には雲ひとつない。

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 「弁慶茶屋」から5分ほどで「弁慶七戻り」に着いた。今にも落ちてきそうな天井石は長さ約10m、縦横それぞれ2〜3mはあるだろう。自然がつくったドルメンとしてはなかなかのものだ。


「弁慶茶屋」から見上げた女体山頂。山頂に人影が見える。





「出船入船」。2隻の巨船が出入りする姿に
似ていることから、この名がついたといわれる。


 「出船入船」を横から見たところ。
 「出船入船」もドルメン状の奇岩といえるが、「弁慶七戻り」と異なり、元は一つの石だったと思えるほど天井部の石がぴったりと重なっている。石の大きさは目測で高さ約4m、幅8mぐらいあるだろう。

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 「北斗岩」は、弘法大師が「北斗の秘法」の修行をしたところだと伝えられるところ。大小二つの岩からなり、北斗七星の形に似ていることから名付けられたという。下部は小さなトンネル状になっていて、くぐり抜けることができる。

「北斗岩」

「大仏岩」。ネバーエンディング・ストーリーに登場する岩を食べる巨人を思わせる。
 「出船入船」「北斗岩」と、今ひとつ名前と姿形が噛みあわないが、この「大仏岩」にはなるほどとうなづいてしまう。これが自然の造形とすれば、まちがいなく傑作の部類に入る。体と頭部の大きさのバランス、胸板のなめらかさと肩の線、横から見たときの顔の陰影など、見るほどに人工の手が加えられていると思いたくなる。体と頭部の石質が異なるように見えるのは気のせいか?

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 「立身石」は筑波山の西峰、男体山頂上付近の自然研究路沿いにある。名前から勝手にメンヒル(立石)を予想していたが、名の由来は「立身出世」の意で、農家の子として生まれた間宮林蔵がここで立身を祈願したというもの。また、かの親鸞上人も越後流罪の後、この地に来て祈り、餓鬼を救ったといういわれが残る。
 書棚の吉村昭の『間宮林蔵』をひっぱり出してみる。たしかに林蔵(1780-1844)は、13歳のとき、幕府の命令で地理調査のため関東諸国を歩き回っていた幕府普請役・村上島之允に見い出され、筑波から江戸へと旅立ってゆく。「立身石」は、これから世に出ようとする林蔵の気概に、なんともふさわしいメンヒルであるまいか。

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2005年10月23日撮影
「大仏岩」


ガマ石。江戸時代の香具師永井兵助が、あの有名な
「ガマの油売り口上」を考え出したところといわれる。


「立身石」。親鸞上人の碑の右手に、旧跡と書かれた間宮林蔵の碑がある。



 
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