鉾(ほこ)岩、別名ローソク岩と双龍門。双龍門の竣工は安政2年(1855)。
扉に龍の彫刻が施されていることから双龍門と呼ばれる。(国指定重要文化財)


榛名神社本殿。文化3年(1806)に再建。御姿岩の前面に接して建てられ岩奥に御神体が祀られている。
権現造の建物は朱と黒を基調として要所に金箔や多彩な彩色が施されている。(国指定重要文化財)


本殿背後に聳える「御姿(みすがた)岩」。途中のくびれたところには御幣が飾られている。
毎年5月1日未明に御幣を取り替える「御嶽(みたけ)祭神事」が行われる。
 五来重の『山の宗教―修験道講義』(角川選書)に、「だいたい、修験道の山伏は非常にぜいたくでして、みな日本一の景色の所へ自分の本拠をつくります」とあるが、ここ榛名神社もこの言葉に違わぬ景勝の地だ。石畳に覆われた参道を歩けば、清流あり滝あり奇岩あり。山頂には、ゆたかに水をたたえたカルデラ湖、かたわらにはミニチュアながら富士(標高1390.3m)までもある。
 榛名神社は筑波山・鹿野山と並ぶ関東三大修験道名山の一つ。修験道とは、日本古来の山岳信仰が神道や仏教、道教、シャーマニズムと習合した宗教で、葛城山で修行した役小角、行基、道鏡や、比叡山の最澄、高野山の空海などは広く知られている。

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 榛名神社の歴史は古く、はるか神代の時代にまでさかのぼる。「ウィキペディア-Wikipedia」には「綏靖(すいぜん)天皇の時代に鎮座し、用明天皇元年(586年)に社殿が造営された」とある。
 綏靖天皇は、神武に続く第2代天皇で、在位は紀元前581〜549年。時代区分では縄文晩期となる。文献上の初見は、10世紀初に編まれた『延喜式神名帳』で、境内から平安末期頃と思われる寺院跡が発見されており、当時すでに格式の高い神社であったことがうかがえる。

 奈良時代から平安時代にかけて、神仏習合の流れのなかで神道と仏教は混じり合ってしまう。中世には、満行(まんぎょう)権現と称し、別当を榛名寺、榛名巖寺、榛名山満行寺、榛名山寺、巌殿(がんでん)寺などと称し修験道の行場となった。
 承元4年(1210)、快良が初代座主に就任、以降、座主は関白道長の子孫が代々受け継いだという。そして、南北朝期の座主職をめぐる抗争により、鎌倉の鶴岡八幡宮とも関係がある頼印大僧正が座主となり、榛名山信仰の高揚期を迎える。
 近世期は、特定の社寺に所属して参詣者の参拝・宿泊などの世話をする御師(おし)制度の発達によって、関東、東北、中部にまで及ぶ広範な地域に講集団が形成され、地蔵信仰と結び、死霊の帰る山として信仰されていた。戦国期には座主職も空位で衰退の一途を辿る。
 江戸時代、天海僧正により復興、江戸の東叡山寛永寺の支配下におかれる。

 明治に入り榛名神社として独立。神仏分離令にはじまる仏教弾圧の動きの中で、廃仏毀釈運動がおこり各地の寺院や仏具の破壊が行なわれるが、三重の塔は、再建されたばかりで、壊すに忍びなかったのだろう、五躯の神像が置かれていたので破却を免れたという。現在の主神は火の神・火産霊神(ホムスビ)と土の神・埴山姫神(ハニヤマヒメ)である。

 榛名山の2000年を越える歴史のなかで、神道・仏教・修験道、神仏習合・神仏離合……と、時代の変遷によって祀られる神は変わっても、「御姿岩」に対する信仰は微動だにしていない。

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 榛名山に関する伝承に、ダイダラボッチ伝説がある。「巨人二人が、鶏の鳴くまでに山造りをしようと約束し、始める。駿河の富士をつくり終えて、鶏の鳴く頃、榛名富士を造る男の所に出向いてみると、まだ造っている最中であったので、勝負にかったと微笑する。その土を採った跡が、榛名湖だと伝える」というもの。榛名神社に鎮座する「御姿岩」が、あたかも巨人のモデルであったのかのよう。
 また、赤城山と伊香保大明神(榛名山)とが、龍となって沼の争奪戦を展開したという龍神伝説や榛名神社が諏訪神社から井戸を通して食器を借りたという伝承、弘法大師が杖を刺して井戸を掘ったという伝承が残されている。

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2007年11月23日
参道途中の奇岩。境内の配置は奇岩を巧みに取り入れてレイアウトされている。


随神門。榛名神社山門で、もとは弘化4年(1847)に建てられた仁王門。神仏習合時代には運慶作の仁王像が置かれていたが、神仏分離令により焼かれてしまう。明治39年(1907)に随神像が祀られたため随神門と呼ばれている。


三重の塔。高さ30mで群馬県内唯一の塔。明治2(1869)年の再建。明治初年の廃仏毀釈は、塔に五躯の神像が置かれていたことで破却を免れたという。神仏習合の名残りを留める建造物で現在は神宝殿と呼ばれている。


瓶子滝。「へいし」ではなく「みすず」の滝と読むらしい。両側の岩が神酒を入れる錫の酒器(みすず)に見えることからその名がついた。


巨岩が並ぶ行者渓。修験道の創始者・役小角もここで修行をおこなったといわれる。

案内板