陰陽神社本殿。小型ながら彫り物は緻密な手の込んだもの。背後にご神体の陰陽石が聳える


陰陽石。左が「陽石」右が「陰石」


横から眺めた「陰石」。背後にも巨石が見られる
 陰陽山森林公園内にある陰陽山の標高は233m。ふもとの駐車場から鳥居をくぐり長い石段を10分余り登ると幣殿があり、さらに5分ほどで陰陽神社本殿に着く。
 「陰陽(いんよう)神社」という名前から、平安時代に活躍した賀茂保憲(かものやすのり)や安倍晴明(あべのせいめい)、蘆屋道満(あしやどうまん)などのカリスマ陰陽師(おんみょうじ)にまつわる神社を連想してみたが、ここに神社を置いたのは、またしても先の「宿魂石」と同じ、あの水戸黄門、水戸二代藩主・徳川光圀だった。
 寛文元年(1661)、光圀が領内巡視の際、南の上大賀村から山頂の巨岩「夫婦岩」を望み、2体の柱状石の偉観に驚嘆し、神社の創建を思い立ったといわれる。しかし、当時この山は小口家の持ち山であったため、小口氏には代替の山林を与え、30年後の元禄3年(1690)に「夫婦岩」を「陰陽石」と改め、陰陽神社として再興。元禄4年に社殿が完成し、伊邪那岐、伊邪那美を祀ったのが始まりといわれる。

 この光圀公、晩年、水戸の北にある西山荘に隠棲し「大日本記」を著し、神仏分離を推進し名社名刹には特別な庇護を加え神道興隆につとめている。こうした古神道への傾倒ぶりから、巨石信仰にも並々ならぬ関心を寄せていたらしい。
 竪破山(たつわれさん)にある、真っ二つに割れた巨石を見て「最も奇なり」と感銘し、太刀割石(たちわりいし)と命名したのも光圀といわれているし、鹿島神宮のご神体である要石の正体を見極めるようと、七日七晩この石の周りを掘らせたという伝承もある。
 しかしながら立石状のこの石を、性神としての陰陽石に見立てるには少々解せないものがある。
 東側にある陰石は、高さ10m、横2.3m、厚さ2.5m。西側の陽石は高さ8.8m、横5.6m、厚さ1.9m。身長ではノミの夫婦となり、もともと一つの大岩が割れたもののようにも見える。
 一般に陰陽石には、性信仰や性器崇拝の原始信仰の流れによるものが多いが、この陰陽石の形状は、むしろシンメトリーであり、陰と陽を対(つい)でとらえる中国思想の太極的な陰陽論に基づいて名付けられたものに思えるがどうだろう。

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 陰陽神社のウナギ犬狛犬について、説明板には「この狛犬は、多くの神社に見られる獅子狛犬と異なり、朝鮮北部高麗地方に於いて狩りのときに使われた足の短かく太くて背の長い犬の姿をしている。県内には勿論、全国的にもこのような姿の狛犬は他には見られない 珍しいものである。」と記されている。
 狛犬の起源はペルシャやインドにあるらしく、その異形な姿を日本にはいない異国の犬、すなわち高麗の犬と考えたことから高麗犬と呼ばれるようになったという。ウナギ犬のような短足胴長の犬が、果たして高麗地方の犬なのか?
 石であっても狛犬は私のテリトリーではない。いらぬ忖度はやめておこう。

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2008年4月9日撮影
本殿にいたる長い石段。写真中央の鳥居に「陰陽山」という
扁額は光圀の字を彫ったものといわれている



短足胴長の犬のように見える珍しい狛犬


【案内板】