天津甕星(あまつみかぼし)の荒魂を封じ込めた「宿魂石」。


くさりをつたって巨岩を登る。「宿魂石」は一つの石ではなく岩山全体のことをいう。


岩上に鎮座する本殿。祭神は建葉槌命(たけはづちのみこと)。
 大甕(おおみか)倭文(しず)神社と読む。「おおみか」の名は、甕星香々背男(みかぼしのかがせお)と称する悪神がこの地に居を構えていたことに拠るもの。「しず」は、その悪神・香々背男を成敗した当社の祭神、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづちのみこと)の名に由来する。倭文神とは織物をつかさどる神であり、建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られ、奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社を本源とする。

 神社の由来を解説する『大甕倭文神宮縁起』は、『日本書紀』神代下に書かれた以下の記述、
 天神(あまつかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)を遣(つかは)して、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定(しず)めしむ。時に二の神曰さく、「天(あめ)に悪(あ)しき神有り。名を天津甕星(あまつみかぼし)と日(い)う。亦の名は天香香背男(あまのかかせお)。請(こ)ふ、先ず此の神を誅(つみな)ひて、然(しかう)して後に下りて葦原中国を撥(はら)はむ」。
 と。本文注の
 一(ある)に云はく、二(ふたはしら)の神遂(つひ)に邪神(あしきかみ)及び草木石の類を誅(つみな)ひて、皆己(みで)に平(む)けむ。其の不服(うべな)はぬ者は、唯星の神香々背男のみ、故、加(また)倭文神(しとりがみ)武葉槌命を遣(つかは)せば服(うべな)ひぬ。故(かれ)、二の神天に登るといふ。
 この二つの伝承をベースに書かれたものでる。
 天津甕星は、古事記には登場せず、日本書紀にのみ登場する星の神である。「ミカ」は「厳(いか)」の意であるとし金星を指すといわれる。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。

 この伝承については、「Book巡礼」石川淳の『八幡縁起』の章で、石が成長する信仰の一例として紹介している。
 不服(うべな)はぬ神甕星香々背男(みかぼしかがせお)が久慈郡大甕山の巨石に変じて、日ごと成長し天にもいたらんとする。この悪(あ)しき神に対し、香取の経津主(ふつぬし)命と鹿島の武甕槌(たけみかづち)命が、武神である武葉槌(たけはづち)命を遣わし、岩に姿を変えた甕星香々背男を金の沓で蹴り上げると、岩を砕け、一つは神磯として今に伝わる「おんねさま」になり、あとの石は石神、石塚、石井に飛んだ。というもの。

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 「大甕倭文神社のしおり」には、当地が古代における交通の起点として、奥州に通ずる街道の要衝の地であったことが記されている。
 天津甕星は、東国地方の陸地はおろか、海上にまで一大勢力をもっており、鹿島・香取の神も、この勇猛なる大勢力の前に為すすべがなかった。
 鹿島・香取は、8世紀以降の蝦夷征討の水軍の発信基地であり、東国経略の拠点であった。大和朝廷の東国制圧に際し、天津甕星は真っ先に封じ込めねばならない神だったである。

 現在の神社は、元禄8年(1695)徳川光圀の造営により整えられたものだが、宿魂石といわれる巨岩群は、古代から知られる聖地であったのだろう。ここに伝わる石成長伝説が、先の日本書記の記述と重なり、「うべなはぬ者」「まつろわぬ星神」の物語が誕生したと思われる。

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2008年4月9日撮影
元禄8年、徳川光圀によって造営された神社拝殿。

鬱蒼とした社叢は「大甕神社境内樹叢」として、
市の天然記念物に指定されている。

境内に奉納されたいかりが並ぶ。
海上鎮護、水上安全の神としても知られてる。


【案内板】