7世紀初頭の家族墓的な集団墓地と考えられ、ほとんどが群集してに造られている。


横穴の数は52基(西群8基、東群44基)。すべて南を向いて開口している。


各穴の奥壁には、さまざまな表情の観音像が浮き彫りされている。
 宇都宮市の北部、国道119号線に沿った丘陵の斜面に、漆黒のうつろな穴がいくつも並ぶ異様な露岩がある。軽石凝灰岩(ぎょうかいがん)の岩肌に穿たれた52基の横穴墓。長岡百穴(ひゃくあな)古墳と呼ばれる古墳時代末期(7世紀初頭)に造られた横穴式の群集墓である。

 3世紀後半の前方後円墳の誕生から、列島各地にすさまじいばかりの古墳造営ラッシュがはじまる。5世紀後半に入ると古墳の墳丘はしだいに小さくなり、古墳時代後期の6世紀には、小古墳が爆発的に増加する。横穴墓の出現は6世紀後半、九州北部から北は東北にまで広がっていく。
 広義においては、横穴墓も古墳の中に位置づけられるが、古墳は墳丘のある墓所のことを指し、正確には古墳とは呼ばれない。崖や丘陵斜面に横穴を掘って墓室とする形態は横穴墓(よこあなぼ)と呼ばれる。細かなことと思われようが、「古墳」と「横穴墓」の違いを明確にしておきたい。

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 墳丘をもつ古墳と墳丘のない横穴墓の差異はどこにあるのか。長岡百穴の周辺には、大塚古墳、谷口山古墳、瓦塚古墳など、7世紀前半のほぼ同じ時期に造られた墳丘をもつ古墳がある。一般に、横穴墓に葬られた人々は、身分的に低い階層者として捉えられている。しかし、横穴墓の副葬品のなかには古墳を上回るものが発見されることもあり、単純に古墳より下層の人々と決めつけることはできなくなっている。
 この問題について、考古学者の井上光貞氏は、横穴は墓地としての面積を必要としないことから、地方の山林・原野を占有できなかった集団として、渡来系の人たちを想定するのも一案だとしている。
 卓説であると思う。

 自然の地形を利用して、さらに追葬(ついそう)も可能な横穴墓は「薄葬」志向であり、今風に云えばエコ的でさえある。巨大古墳の造営という究極の「厚葬志向」に対する、仏教思想の影響などによる新たな死生観のあらわれとも考えられる。

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 長岡百穴の横穴の大きさは、縦横それぞれ1mくらい、奥行きは2mほど。各穴の奥壁には、室町時代後期の作と推定される立像、座像など、さまざまな表情の観音像が浮き彫りされている。
 横穴墓では日本一の規模(219基)をもつ吉見百穴(埼玉県比企郡)の横穴に比べ、長岡百穴の横穴は大きいように思えるのだが、これは仏像を彫る際、穴も拡張されたためではないだろうか。

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2008年4月9日撮影
 観音像は14、5世紀ごろの作と推定されているが、
平安初期の僧・空海の一夜彫りの伝承もある。


築造当時は閉塞石や扉石でふさがれていたが、
それを空ければ追葬が可能であったと。


【案内板】