▲同伴者に足をもちあげてもらい、やっと上に登ることができた。
 橿原市の南端、標高約130mの岩船山の頂上付近に、飛鳥地方で最大の石造物「益田岩船」がある。交通の便が悪いため訪れる人は少ないのだろう、巨石周囲には篠竹が生い茂っている。

 巨石の所在は江戸時代から知られており、『大和名所図絵』にも描かれているが、建造時期や用途についてはまったく不明。いくつもの説が挙げられている。益田池の石碑説、占星術のための天体観測台説、火葬墳墓説、ゾロアスター教の拝火壇説などがあるが、今のところ最も有力視されているのが横口式石槨説で、建造途中で石にひびが入り放棄されたという。その後別の石を使って完成したものが、岩船から南西に500 mほど離れたところにある牽牛子塚(けんごしづか)古墳であるという。

 石の種類は花崗岩で、大きさは東西の長さ11 m、南北8 m、高さ(北側面)4.7mの台形状で、頂部分の2カ所に方形の孔がくり抜かれている。重量は考古学者森浩一氏の推定で約800トンあるという。これだけの巨石をどうやって運んだのか。これも先達たちを悩ませた大きな謎の一つだ。

▲奥の孔に比べ、手前の孔の水が少なくなっている。
石にひびが入っているためで、加工途中にひびが発見され、
横穴式石槨造りは中止され、未完成のまま放置された。
というのが河上邦彦氏の説。

▲『大和名所圖會』6巻, 5
 奥田尚氏の『石の考古学』(学生社)では、「移動説には疑問がある」としている。1つには800トンもある石を山の上に引き上げることができたのかということ。昭和53年、藤井寺市三ッ塚古墳の周濠から巨大な木製の修羅(ソリ)が発見された。これを復元して石を運ぶ実験が行われたが、結果この修羅で運べる重さは50トンぐらいで、一人が出せる牽引力は40kgであったという。このデータをもとに単純計算すると、100トンで2500人、800トンであればおよそ2万人となる。さらに、この重量に耐える材木があるのかということ。
 2つ目は、現地で石材が加工されていること。なぜ、重い重量のまま運んで、後に加工するのか。石棺材でも必要な寸法の部分だけを切り出し、現地の古墳内では調整加工ぐらいしかしない。石棺などの運搬では考えられないという。
 また、益田岩船の登り口付近に、明治から大正時代にかけての石切場跡があることから、岩船は現地に露出していた石を加工したもので、移動した石ではないとしている。
 説得力のある説で、横口式石槨説も心細く思われてくる。

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2004年4月6日撮影

▲東側(左)と北側(右)側面は、不規則な格子状の刻み目がついていて、加工途中であることがわかる。


【案内板】