生石神社のご神体「石宝殿」は、幅6.45m、高さ5.7m、奥行き7.2mの巨大な石の塊だ。


上部には喬木が繁り形状は分からないが、この喬木の下に穴が存在する可能性も残されている。


上部写真の反対側から。北側面にも浅い溝が彫り込まれている。
 生石(おうしこ)神社のご神体・石宝殿は、竜山(たつやま)と呼ばれる石英粗面岩の岩盤をくり貫いて作り出されたもので、大きさは拝殿側の幅6.45m、高さ5.7m、奥行き5.45mの直方体で、背面に幅1.75mの四角錐の突起があり、突起部を加えた奥行きの全長は7.2mとなる。
 北・南側の両側面には、タテに幅1.6mの浅い溝が彫り込まれており、これは益田岩船上部の溝幅と奇しくも一致している。

 上部は土が積もり喬木が茂っているため形状を知ることができない。基部は四方からえぐられ、凹状の池となり水がたたえられている。水面より40cmほど浮き上がった状態で、あたかも池中に浮かんでいるようにみえる。
 両側面と背面は精緻に加工されているが、社殿(東)側の加工は粗く、両側縁には剥落が目立つ。これは旧社殿が火災にあい熱によってもろくなったためと考えられている。

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 文献のよる宝殿の最古の記録は、Book巡礼『石宝殿』間壁忠彦・間壁葭子共著でも触れている『播磨国風土記』である。印南郡(いいなみのこり)の条に
 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」
 との記述があり、飛鳥時代、大臣・蘇我馬子とことごとく対立した弓削大連(物部守屋/?-587)が作ったものであると記されている。

 『万葉集』にも宝殿に関係すると思われる歌がある。生石村主真人(すぐりまひと)の作で
 「大汝 少彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将経」(おおなむち すくなひこなの いましけむ しづのいわやは いくよへぬらむ)
 「志都乃石室(しづのいわや)」と歌われる部分が宝殿を指すと考えられている。
 この歌から、因幡の白うさぎ神話で有名な大国主神、大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が、現在の生石神社の祭神の由来になったとされている。
 しかし、この万葉の歌に対し、本居宣長などはまったく別の岩屋「石見国なるしづの岩屋」を指すと考えているようだ。間壁説でも平安時代前期の『延喜式』に生石神社の記載がなく、平安時代の最終末の養和元年(1181)の『播磨国内神明帳』に生石大神の名が現れることから、『万葉集』編纂の時代に生石神社はまだ存在していなかったと考えている。

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裏側に幅1.75mの四角錐の突起がある


社殿(東)側。この面だけ火災によるものだろう剥落が目立つ。


司馬江漢『西遊旅譚』に描かれた石の宝殿

北・南側の両側面にある溝幅と益田岩船上部の溝幅が、ともに160cmと一致している。


池中に浮かんでいるようにみえることから「浮石」とも呼ばれている。
 石宝殿はいつ、誰が、何のために作ったのか? これについては、『石宝殿』の間壁説を参照されたい。時代的にも、形のうえでも共通性を持つものとして、益田岩船と牽午子塚(けんごしづか) 古墳を挙げ、飛鳥時代の巨大な家形をした横口式石槨であると推理する間壁説は、同じく益田岩船と対置させる松本清張の拝火神殿説より、はるかに説得力があり興味深い。

 石宝殿を動かそうとした形跡は認められていない。『益田岩船』で記したように、一人が出せる牽引力は40kgほどである。石宝殿の重量は約500トン。この巨大な石の塊を運び出すには12,500人が一斉に引く計算になる。これだけの人数を動員して、しかも大和まで運んでいくなどとうてい不可能であり、考えること自体が馬鹿げているように思える。
 しかし、物部守屋とほぼ同じ時代、中国・隋の煬帝(ようだい/569〜604)は、淮水から長江に達する大運河を開鑿させ、大船団をロープで引っぱるために、10万人の人夫を動員したという。
 権力の肥大化が、時として大いなる徒労、壮大なムダを生みだす例は、歴史的にも枚挙に暇がない。

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2007年4月2日撮影
下部分

手前より石宝殿、社殿、街並み。高所であることが分かる。

生石神社の裏山から眺めた周辺の石切場。古墳時代より一大ブランドとして名を馳せた竜山石。
姫路城の石垣や国会議事堂など、各地の有名建造物に使用されている。
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日本三奇石乃寶殿 鎮の石室(いわや)とは
 神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に寵もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と構して居る所以である。

鎮の石室(通称、浮石)の容姿と工程
 鎮の石室は三方岩壁に囲まれた巨岩の殿営で池中に浮く東西に横たわりたる姿である。その容積は三間半(約七?)四方で棟丈は二丈六尺(約六?)である。この工事に依って生じた屑石の量たるや又莫大であるが、この屑石を人や動物に踏ませじと一里北に在る霊峰高御位山の山頂に整然と捨て置かれて居る。池中の水は霊水にして如伺なる旱魃に於いても渇することなく海水の満干を表はし又万病に卓効有るものと云われて居る。

生石(おうしこ)神社の創建
 人皇十代崇神天皇の御代(西暦九七年)日木全土に悪疫が流行して人民死滅の境にある時、ある夜二神が天皇の夢枕に現れ「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり依りて此所に生石神社が創建せられたのである。以来忽ら悪疫も終息して天下泰平となる。

神社の分霊
 人皇十三代成務天皇十一年〔約一九〇〇年前〕に當生石神社の分霊として羽後国飽海郡平田村生石〔現在山形県酒田市大字生石〕より勤請せられ現在古色豊かに生石神社として栄えて居り當社の分霊として親善の交流を続けて居るのである。

神社の梵鐘
 天正七年(西暦一五七九年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が三木城攻路の折神吉城も落さんとして當神社を陣所に貸与せよとの申出に対し、兄の城を攻める〔時の宮司は神吉城主の弟〕陣所には貸さぬと拒否したるため、秀吉の怒に触れて焼き撃に逢い、そのため神社伝来の凡てが一瞬にして灰燼に帰したのである。その時焼け残った梵鐘は持去られ、後日関ヶ原の戦に西軍石田三成の勇将大谷刑部吉隆が陣鐘として使用したるも、敗戦の結果徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄附し、敵将ながらも実に惜しむべき武将であると慨嘆し、朝夕此の鐘を撞いて未来永劫に吉隆及び戦者霊を慰さめよとの事であったと云われて居る。現に大垣市の指定文化財として保存せられ鐘の表面には當生石神社名が刻銘さる。 (日本三奇とは當社・石乃寶殿(石)、東北地方塩竃神社の塩竃(鐡)及び九州地方霧島神社の天乃逆鉾(銅)を謂う。)

万葉集巻三
 大汝少彦名乃将座志都乃石室者幾代将経(大なむち少彦名のいましけむしづのいわやは幾代へぬらむ)
 世をへても朽ぬいはほのなかりせばかみ代のあとをいかてしらまし
 うこきなき御代のしるしと神さひて幾としか経しこれのいはむろ
 うこきなき御代よろずよの宝とていしのみやいはつくりけらしも
 みるからに尊かりけりはりまなる志都のいわやは神のふるさと

(生石神社略記より)