岩上神社。手入れが行き届いている。


高さ1.7m、直径1mの岩神さま。


子供に化けたという伝承から「禿童(かむろ)石」とも呼ばれている。
 京都市上京区浄福寺通上立売を上がったところ、高級絹織物西陣織の発祥地「西陣・大黒町」の一角に、人の背丈ほどある巨石「岩神さま」が祀られている。
 岩上(いわがみ)神社と呼ばれているが、小さな杜のなかに、丸木の神明鳥居と巨石の覆屋、「岩神」の扁額をかかげた手水舎があるだけで、神社というよりも、路傍に置かれた道祖神、塞の神の風情にちかい。

 京都新聞社編『京都・伝説散歩』(河出文庫)に、「岩神祠(いわがみし)」として当地が紹介されている。昭和45年ころに書かれたその記事によると、「西陣お召の千切屋(ちきりや)寮の中央に「岩神」の額がかかっていて、その細い路地に導かれた、奥に」ぼつんとただ一つ鎮座していたとある。現在、千切屋寮は取り壊されて「岩神祠」の周囲は広場になっている。街の景観は、当時とすっかり変わってしまったのだろう。

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 岩神さまは、京都では数少ない性神(陽石)といわれているが、なぜこの地に岩が置かれているかについては不詳であり、いわれについても確たるものはない。

 もとは中京区の二条堀川付近にあったとも、弘仁年間(810〜824)、嵯峨天皇の後院(譲位後の御所)として造営された離宮・冷泉院(れいぜいいん、二条城北東)の鎮守社にあったともいわれている。
 江戸時代前期に、石の姿がよいと、中和門院(後水尾天皇女御)の御所の庭へと遷されたが、以来、院内でさまざまな怪異が引き起こされる。夜になると「帰りたい、帰りたい」と、すすり泣きの声が聞こえる。あるいは、内裏の築山に遷そうとすると吼えたという。また、子どもに化けて、神泉苑で怪をなしたともいう。
 寛永7年(1630)、持て余した御所の官史は、蓮乗院という真言宗の僧侶に相談する。僧が祈祷し、どこに帰りたいのかと尋ね、石の望んだ現在地に遷すと、怪異はぴたりとおさまったという。
 その後、有乳(うにゅう)山岩神寺と称し、「岩神さま」を寺の本尊として安置したという。かつては大きな祠をかまえ、授乳、子育ての神として、地元の信仰を集めていたが、寛永15年(1730)の「西陣焼け」と天明の大火(1788)で焼かれ、寺は荒廃する。明治に入ると、神仏分離令より廃寺となり、巨石だけが残されたが、大正期、千切屋が敷地内に祠を構え、以降「岩上神社(岩上祠)」となって現在に至るという。

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 塞の神、道祖神は、路傍にあって悪霊邪鬼の侵入を防ぐという職能をもっているが、場所を移されることによって、境界を守護する資格、職能を失うことになる。「帰りたい」と石が泣くのは、道祖神的役割が果たせないことを嘆き、泣くものと考えられる。子どもに化けるという伝承も、一般に塞の神、道祖神が、子どもを守る神とされることに由来するものと思われる。また、性神としての職能は、農業神、縁結びの神様に結びつく。

 雅な王朝文化を誇る京都市内のなかに、原始土俗宗教の一種とされる石神信仰が残されていることに、あらためて道祖神、塞の神信仰の奥深さを感じる。

 性的道祖神という点では、昨年訪ねた青森県むつ市の石神邨社のご神体と、大きさ、形状が似ている。未読の方はご覧いただきたい。

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2015年4月26日 撮影

手水舎


岩上神社の覆屋。


案内板。