石の高さは160cmくらい。祀られ方が「山崎のコンセイサマ」と似ていると思う。


祠のなかに鎮座する石神様。右に地蔵尊が祀られている。
  鯛島を望む牛ノ首岬から国道338号線に戻り、東に約2.5km走ったところに「松ヶ崎」という小さな岬がある。脇野沢の本村集落と小沢集落のほぼ真ん中に位置し、あたりに民家は見られないが、国道沿いに鳥居があるので分かりやすい。鳥居の横の標柱には「石神邨社」とある。「邨」は村の古字で「いしがみそんしゃ」と読む。

 菅江真澄も、寛政5年(1793)5月にこの地を訪ね、わずかだが石神について書き残している。
 「松が崎(脇野沢村)といって、木々がおおい茂りあっておもしろい風景のところがある。この浦人が海参(なまこ)網にはいった石をひきあげてここにすえ、石神として祭ったのだが、むかしよりは、このように高く石の形がのびてきてしまったという。」(遊覧記「奥の浦うら」)

 柳田國男も『日本の伝説』の「袂石(たもといし)」のなかで、日本各地に伝わる石成長譚を数多く紹介しているが、その事例の一つに上記の真澄の記事を収録している。
 石神伝承は、220年前の真澄の時代以前から伝わるものであったらしい。伝承については、むつ市役所脇野沢庁舎からいただいた資料により紹介する。

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 『新撰陸奥国誌』によると、今から237年前の安永6年(1777)に本村の漁師・能登喜右衛門がナマコを採りに沖に出るが終日不漁で、そのうえ網に十貫目(約38kg)の石がかかり、何度投げ捨ててもこの石が網にかかる。これが数日続いたため、この石は尋常ではないとみて、近くの松ヶ崎の磯に引き揚げておいたところ、次第に石が成長し始めた。そこで、その石に不思議を感じて小祠を建立し、石神として祀ったのが始まりであると伝える。
 漁師の能登喜右衛門の子孫は今はいないが、明治時代までは、現在の吉田商店(むつ市脇野沢本村)の場所に住んでいた高橋喜弥太が4代目であったという。その後もこの石は成長を続け、地面に食い込み、屋根も突き貫ける程であったので、万延元年(1860)にお堂を再建したと伝える。
 けれども宝暦年間(1755〜1763)に編まれた南部藩の『御領分社堂』に、すでに石仏堂の名が見えるので、安永6年では遅いと考えられ疑問の余地がある。と記されている。
 ついでにいえば、角川の『日本地名大辞典』では、海から引き揚げたのは延宝年間(1673〜1681)とあり、安永6年でよりも100年古くなっている。

 いずれにしろ、伝承のはじまりは近世の頃と思われる。引き揚げられたときは約38kgだったが、今では身の丈ほどの大きさで、数百kgはあるのではないだろうか。神霊の宿る石は、君が代に詠われる「さざれ石の巌(いわお)となりて」のように成長するものと考えられたが、それにしても成長が早すぎるような気もするが。

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 一方で、この石神様は縁結びの神でもあるという。思いを寄せる相手の名前を、こよりか赤い布切れに書き、石の表面のイボに結びつけるとその思いが叶うという。また、石神様の右脇に置かれている地蔵尊に、米を入れた袋を二つ供え、一つはそのままにして、一方を持ち帰り、おかゆを炊いて食べると、乳の出がよくなるという。さらに、石の前には男根状のロウソク立てが置かれ、お堂のなかには性的な落書きが多く見られるという。

 訪ねた折に、そのようなロウソク立てや落書きは見られなかったが、この石神様には石成長の信仰に加えて、性的道祖神としてのコンセイサマ信仰も習合しているのではないかと考えられる。
 石神邨社は、明治5年に一度廃社になっているが、これは同年に施行された淫祠邪教を戒める法令によるものと思われる。現在は、本村の能舞講中が祭祀および維持管理にあたっており、毎年秋には祭りが行われているという。

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2014年5月5日 撮影

陸奥湾に面して建てられた石神邨社のお堂。
戸に鍵はかかっていなかった。
ことわる人もいないので、勝手に入らせてもらう。

国道338号線沿いにある松ヶ崎と呼ばれる岬。ブナ林を登った崖の上に石神社がある。