一の鳥居をくぐり、突きあたりの石段から山の中に入って行く。


白石神社本殿。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いなざみのみこと)。


白石神社本殿。右に磐座が見える。


特別、石の色が白いわけではないが、なぜか「白石」と呼ばれている。
 大津市の日吉大社から、西大津バイパス(国道161号)の長等トンネルを抜け、京都市山科区の白石神社に向かう。
 音羽山の牛尾観音(法厳寺)に至る道筋、小山集落の民家がとぎれるあたりに白石神社の入口がある。一の鳥居をくぐり、杉木立の生い茂る暗い参道を上っていく。境内は山の斜面に2段造成されており、下段に拝殿と手水舎、上段に朱塗りの玉垣に囲まれた本殿と目指すところの磐座が鎮座している。石の大きさは高さ約4m、長さ約9m。「白石」と呼ばれているが、特別、石の色が白いわけではない。

 当社は、江戸時代後期の『拾遺都名所図会』(1787年)にも掲載されている。かつては、それなりに知られた名所だったと思われるが、今はその面影はない。真昼の木下闇のなかで、境内は深閑と静まり返っていた。

 案内板の由緒も簡単なもので、平安時代初期の「大同年間(806〜809年)に、朝廷より村中に建立勧請されたと伝えられている。境内に大きな白石があることから白石大明神として、社名になった。この巨石に対する信仰が神社の始まりと云われている。」と記されている。
 たしかに、境内に大きな石はあるが、先ほど述べたように、とりわけ白い石ではない。それでは「白石大明神」の正体はいったい何なのだろう。

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 「白石」の社名には、前々からひっかかるものがあった。「白鬚神社」のなかで「「シラ」は、新羅の最初の国号「斯盧(シラ)」の意であり、斯盧(シラ)国から新羅(シラ)国へと国号が変わる過程で「シラギ」に転訛して「白鬚」になった」という説を紹介した。この理屈でいえば、「白石」は「新羅の石」ということになる。
 『日本の中の朝鮮文化』シリーズの著者・金達寿氏は、新羅が白木・白城・白子・白石などと転化する例はたくさんあるとし、『古代朝鮮と日本文化』(講談社学術文庫)で、以下のように記されている。
 「小浜市北方の北川に流れ込む遠敷(おにゅう)川の谷間をさかのぼってゆきますと、途中に若狭一の宮となっている若狭姫、若狭彦神社があって、間もなく神宮寺となります。そしてこの神宮寺からさらにまたさかのぼってゆきますと、遠敷川上流の根来(ねごろ)に白石神社があります。
 若狭姫・彦神社といい、神宮寺といっても、これはみなその根は一つで、どちらも根来の白石神社から出ています。同寺の『お水送り』にも「若狭の根来に祭られていた白石(新羅氏)明神」とあるように、白石神社の白石というのも、もとは新羅ということにほかなりません。」


 上記に出てくる「若狭姫、若狭彦神社」は、福井県小浜市の多田ヶ岳北東麓にあり、延喜式にも名神大社として記載された格式の高い古社である。上社(若狭彦神社)と下社(若狭姫神社)からなり、両社を併せて「上下宮」と呼ばれている。神宮寺は、神仏習合思想に基づき、若狭彦、若狭姫の神が仏となって現れた寺とされている。これらの寺社の根源にあたるのが、白石神社であるという。
 白石神社に祀られているのは「遠敷明神」。若狭彦神社の祭神・若狭彦大神と同一神で、「白石大明神」とはこの地に降臨した遠敷明神のことである。
 社伝によると「紀元一世紀頃、唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を……」とある。
 唐服を着ていたということから、遠敷明神は渡来人であったと考えられる。

 また、同寺の『お水送り』とは、奈良・東大寺二月堂の「お水取り」に先がけて行われる行事で、毎年3月2日に、遠敷川中流にある淵「鵜の瀬」に香水を流す。この香水は、約10日間かけて若狭の真南、直線距離でおよそ85kmほど離れた東大寺二月堂の「若狭井」にとどくとされている。

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 ここからは私の推測である。なんらかの参考になれば幸いと思う。
 金達寿氏の文章を読み、若狭にも白石神社があることを知った。これを地図で調べてみると、山科の白石神社は若狭白石神社の真南、東経135度の子午線(しごせん)上にあることに気が付いた。「お水取り」の東大寺二月堂が「お水送り」の若狭神宮寺の真北に位置していることはよく知られているが、山科の白石神社も東経135度84分にあり、若狭白石神社・二月堂ラインの同一線状に位置している。
 これを偶然として片付けてよいものか、私の頭では答えが出せないが、以前からひっかかっていた、白石明神と白鬚明神は、本来同一の神であったとする考えは、ますます強くなった。

 「お水送り」の伝承によると、遠敷明神(白石明神)は、漁(釣り)に夢中になり、東大寺二月堂の開創法要に遅刻してしまう。そのお詫びとして、若狭から本尊に供える閼伽水(あかみず)を送ると約束したのが「お水送り」の起源とされている。
 遠敷明神が大変な釣り好きであったことがうかがえるエピソードだが、白鬚明神も『白鬚大明神縁起絵巻』や謡曲「白鬚」に、一人の老翁が釣り糸をたれる太公望の姿が描かれている。

 つぎに、遠敷明神には、人魚の肉を食べたために八百歳まで生きたという比丘尼が、尼になる前、巫女として遠敷明神に仕えていたという伝承が残されている。この比丘尼は白髪であったといわれ、白石神社のある下根来には、八百比丘尼の墓もある。不老長寿の伝承も白鬚明神と共通したものである。

 釣り好きと間接的な不老長寿伝承では、確証といえないが、白石明神と白鬚明神は、新羅由来の神としてつながっていたのではないか。その可能性はきわめて大きいように思える。

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2015年4月26日 撮影

『拾遺都名所図会』小山村 白石明神
本社の横に磐座が描かれている。
「小山村にあり。東の山の下に一つの白石あり、
其側に社あり。是則白石明神なり」と紹介されている。

案内板