藤ケ崎龍神から琵琶湖大橋を渡り国道161号線(湖西道路)を北上する。白砂青松の景勝地「近江舞子」をすぎると、湖に浮かぶ白鬚(しらひげ)神社の朱塗りの大鳥居が見えてくる。
白鬚神社は、比良山系が琵琶湖にもっともせり出した「明神崎」と呼ばれる岬の突端にある。湖岸沿いを走る国道をはさんで、社殿と拝殿は、湖とのわずかな平坦地に建てられ、境内社と磐座は神社の背後に迫る明神山(比良山系)と呼ばれる山の斜面に祀られている。
「近江の厳島」とも称されるこの鳥居について、弘安3年(1280)の原図をもとに描かれた「比良荘境相論絵図」(右下図)には、鳥居は湖中にではなく、陸上に描かれている。社伝には、天下変災の前兆として、突然、 鳥居が湖中から姿をあらわした。とあるが、これではあまりに唐突すぎる。他に、寛文元年(1662)に琵琶湖西岸を中心に発生した寛文地震によって水中に陥没し、以来湖中に立つようになったという伝承もあるが、こちらの説も確証はない。
境内の鳥居復興碑には、昭和12年(1937)に大阪の薬問屋の小西久兵衛が単身で寄進。現在の鳥居は、昭和56年(1981)琵琶湖総合開発の補償事業で建立。国道端より58.2m沖、高さ(湖面より)12m、柱幅7.8mとある。
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白鬚神社の創建年代は不明だが、近江最古の大社といわれるほど古くから存在していたといわれている。
神社の縁起には、第11代垂仁天皇25年(BC5)創祀、白鳳3年(674)には、天武天皇の勅旨を以て、「比良明神」の号を賜わったとあるが、垂仁天皇25年では創建2000年を超えることになる。これはにわかに信じがたい。
白鬚神社は、別名「比良明神」「白鬚大明神」と呼ばれている。「比良明神」の初見は、平安時代中期の『日本三代実録』貞観7年(865)正月18日条の「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」の記載であり、「白鬚」については、先にあげた鎌倉時代の「比良荘境相論絵図」で、右図の破線丸印部分にある「白ヒゲ大明神」の記載が初見といわれる。
「比良」が「白鬚」に変わった理由として、大和岩雄氏は『神社と古代民間祭祀』(白水社)のなかで、「比良」は「黄津比良坂(よもつひらさか)」の「ヒラ」であり、境界の意味をもつ。これは生と死を統合した観念で、比良神社を白鬚神社というのは、本来の比良神社のもっていた死んでよみがえる再生感が、不老不死の長生感に変わったためだろうと記している。
「白鬚」の名称の由来も諸説ある。もっとも定説に近いと思われるのが、新羅系渡来人が祖神を祀ったものとする説で、「シラ」は、新羅の最初の国号「斯盧(シラ)」の意であり、斯盧(シラ)国から新羅(シラ)国へと国号が変わる過程で「シラギ」に転訛して「白鬚」になったというもの。また一方で、社名の白鬚(はくしゅ)は、百済(ひやくさい)のことであり、百済系渡来神を祀った神社とする説もある。現祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)となっているが、古くは渡来系の神を祀った神社であったと考えられている。
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境内の裏山に、境内社の一つ「岩戸社」と呼ばれる小さな社がある。社の中には横穴式石室の開口部が「天の岩戸」として祀られており、背後の板垣で囲われた神域には石室の天井石が露出している。「岩戸社」の横には、注連縄で結界がはられ、なかに三角状の大きな磐座が鎮座している。この磐座も、形状からみて石室に使われた石ように見えるが、確証はない。
この裏山周辺が「白鬚神社古墳群」と呼ばれ、古墳がいくつも点在し、山頂には磐座もあるという。詳しい調査はされていないので年代および被葬者は不明だが、ここが白鬚神社を創建した祖先の墳墓であったことは、まちがいないだろう。
この「岩戸社」を見て想起するのは、「猪子山の岩船神社」(猪子山の岩船伝承にも「比良神」が登場している)で記した「神社の起源は古墳である」の考察である。古墳の石室が、そのまま神として社のなかに祀られているのだから、これほど分かりやすい構図はまたとないと思われる。
神体山信仰の対象となった比良山の自然神「比良神」が、里宮としてこの地に祀られ、つづいて地方豪族の出現とともに祖先神「白ヒゲ大明神」と名を変え、やがて社殿が建立される時代になり、人格神「猿田彦命」へと、移り変わっていったのではないだろうか。
比良神、白鬚大明神、猿田彦命と神さまの名前は異なっているが、その主体は同じであると考えられる。時代の変遷によって化身していく神の姿に、白鬚神社の長い歴史が秘められている。
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2015年4月25日 撮影
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「白鬚神社境内図」
境内図のいちばん上部に「岩戸社」ある。
「比良荘境相論絵図」(部分)。鳥居は陸上に描かれており、
右下の破線丸印の部分に「白ヒゲ大明神」の記載がある。
岩戸社。 社のなかには古墳の石室が祀られている。
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