「千畳敷」と呼ばれる岩盤から「楯ヶ崎」を眺める。高さ約80m、周囲約550mの柱状節理の岩壁。
熊野市甫母町(ほぼちょう)、二木島(にぎしま)湾の東に位置する「楯ヶ崎(たてがさき)」。県の名勝および天然記念物に指定されている。
国道311号沿いの駐車場から、アップダウンの遊歩道を約2km、50分ほど歩く。車で岸壁の近くまで行けるものと思っていたので、往復2時間のトレッキングは予定外の行程である。遊歩道をのぞいてみると下り坂。つい一歩を踏み出してしまう。馬鹿ですね〜〜。下りがあれば登りがあることを忘れて。
ぜいぜい喘ぎながら、ようやく辿り着いたと思ったが、そこはまだ道半ばの「阿古師(あこし)神社」だった。ここには、神武東征の際、熊野灘で亡くなった神武天皇の兄の三毛入野命(みけいりのみこと)が祀られている。
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「神倉神社・ゴトビキ岩」
で、ゴトビキ岩こそ、神武が東征の際に登った「天磐盾」であり、このとき神武が巨大な熊の毒気に触れて正気を失うが、このピンチを救ったのが高倉下(たかくらじ)命であると記した。
『日本書紀』における神武東征の物語は、神倉山から二木島湾へと舞台を移す。
高倉下に助けられた神武軍は、神武の兄の稲飯(いない)命と三毛入野(みけいりの)命とともに、さらに東に進むが、海のただ中で暴風に遭遇し、船は木の葉のように翻弄される。
そのとき、稲飯が嘆いていうには「我が祖は天神(あまつかみ)、母は海神(わたつみ)であるのに、どうして陸においても我を苦しめ、また海でもこのような苦難が続くのか」こういって、剣を抜いて海に身を投じ、鋤持(さひもち=鰐(ワニ)のこと)の神となった。
同じく、三毛入野も「我が母および姨(おば)は、いずれも海神であるのに、どうしてこのような風波を起して、我らを溺れさせるのか」といって、浪の秀を踏んで、常世の国に去ってしまう。
残された天皇は、皇子の手研耳(たぎしみみ)命とともに、軍をひきいて進み、熊野の荒坂の津、またの名を丹敷(にしき)の浦に到着し、そこで丹敷戸畔(にしきとべ)という者を誅(ころ)す。
神武が到着した「熊野の荒坂の津、またの名を丹敷の浦」が、現在の二木島湾であり、「楯ヶ崎」に難破した船が流れ着いたといわれているが、「楯ヶ崎」については、日本書紀にも該当する記載はない。
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ヤマトタケルの東伐の中にも、海で嵐にあい、后の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、海神の怒りを解くために「私が御子の身代わりになって海に入りましょう」と、海に身を投げるエピソードがある。稲飯と三毛入野の入水(じゅすい)と類似しているが、果たして動機は同じものだったのか。
どうも、稲飯と三毛入野の場合は、災難ばかりの現世に見切りをつけ「常世(とこよ=ニライカナイ、妣(はは)の国とも)」に夢を託した入水往生のように思えるのだが。
常世の国は、海神の宮とも同一視されている。『日本書紀』神代巻(1書の6)で、大国主命とともに国造りを行なった少彦名神(すくなびこなのみこと)は、国造りを終えた後に、「行きて(出雲の国の)熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」と、海の彼方にある常世の国に帰ってしまう。
稲飯命と三毛入野命の入水は、神武天皇一行が、常世の国から現れた神であることを、熊野の人々に示すためのエピソードではないだろうか。
阿古師神社。二木島湾(荒坂の津)を挟んで、
室古(むろこ)神社に稲飯命を、
阿古師神社に三毛入野命が祀られている。
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阿古師神社と室古神社の例祭「二木島祭」は、
遭難した神武天皇一行を地元の漁師が
救助したという伝承が由来となっている。
数百年と続いた海の祭りだが、過疎と高齢化のために、
2010年11月3日の祭りが最後となった。残念……。
「獅子岩」。熊野灘の波と風が生み出した奇岩。
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【獅子岩】(熊野市井戸町)
国の名勝および天然記念物、世界遺産にも登録されている高さ約25m、周囲約210mの岩塊。熊野酸性岩の海蝕・風蝕によって形成された自然景観で、獅子が海に向かって吠えているように見える。
獅子岩のある七里御浜(しちりみはま)の海岸で、今では希少になったという玉石を探してみる。
黒色と白色は「御浜(みはま)小石」と呼ばれ、かつては“拾い子さん”よって拾われ、アクセサリーなどにも利用されていたという。花の窟や産田神社の白玉石もここから拾われたもの。
私も小さな玉石を5つほど拾って持ち帰った。
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2011年4月29日 撮影
「獅子岩」の南に位置する神仙洞の「人面岩」とともに、
大馬神社(井戸町)の狛犬に見立てられている。