大きくはないが重厚感のある明神型の石鳥居。奥に「龍王宮」と書かれた祠と磐座がある。


藤ケ崎龍神の磐座。2つの巨石を中心に大小の石が周囲に散在している。


磐座の後方に長命寺山と津田山(別名奥島山)、その左に沖島が見える。

山側の「水茎(みずくき)の岡」。鳥居の奥に妙得龍神様を祀る洞窟が見える。右端にあるのが略縁起の石碑。
「龍王ト龍神ナトハ夫婦ニテ 名高キ藤太家名藤原 (江州蒲生郡牧村藤ケ崎神社ノ龍神略縁起)」と刻まれている。

 長命寺から琵琶湖を右手に眺め湖岸道路を南下する。白鳥川を渡ると小さな山・岡山(標高187m)が見えてくる。岡山は3つの峰からなる里山で、山の北端から突き出た、小さな岬の先端に藤ケ崎龍神がある。長命寺からの移動距離は約4.5キロほど。

 付近に由緒を記した案内板は設置されていない。後日、市役所に問い合わせてみたが、藤ケ崎龍神に関する資料はないといわれた。唯一手がかりとなるのは、山側の鳥居の奥にある石碑に刻まれた次の文字だけである。
 「龍王ト龍神ナトハ夫婦ニテ 名高キ藤太家名藤原
 (江州蒲生郡牧村藤ケ崎神社ノ龍神略縁起)」

 「名高キ藤太家名藤原」とは、平安時代中期の下野(しもつけ・栃木県)の武将で、近江富士・三上山の百足退治伝説で知られる藤原秀郷(別名:俵藤太、田原藤太)のこと。『日本お伽集2』(東洋文庫)の中から、藤太の百足退治伝説をかいつまんで紹介しよう。

 ある日、俵藤太が瀬田の唐橋(大津市の瀬田川にかかる橋)を渡ろうとすると、長さ二十丈もあろうと思われる大蛇が、とぐろを巻いて橋いっぱいに横たわっていた。藤太は臆することなく、大蛇の背を踏みつけて渡っていった。すると、大蛇は小さな男に変身し、藤太を呼び止めた。
 小男は、湖に住む竜王の化身であるという。大蛇を恐れぬ藤太の豪胆さを見込み、どうか龍神一族を苦しめる三上山の大百足を退治してほしいと懇願する。
 藤太は快諾する。大百足は三上山を七巻半も巻く怪物である。現われた大百足に一の矢、二の矢をつがえるがはねかえされてしまう。藤太は人間のつばきが百足には毒であることを思い出し、矢の根を口にふくみ、つばきでぬらして最後の矢を放った。矢はみごとに百足の眉間にささり、退治することができた。
 龍神からお礼として、藤太は竜宮に招かれ、米の尽きることない米俵と切れども尽きぬ絹の反物、釣鐘などの宝物をもらって帰る。のちに釣鐘は大津市の古刹・三井寺(みいでら)に寄進される。また、朝敵を追討すれば将軍になれるという予言を得て、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。

 大蛇に化身する竜王を、美しい娘とする別バージョンの説話もある。ここでの美しい娘とは、龍神である宗像三女神の一柱・市杵嶋姫(いちきしまひめ)でことであろう。市杵嶋姫は琵琶湖の北部に浮かぶ神の島・竹生島(ちくぶしま)の祭神でもある。ちなみに、筑前国の首長であった宗像(ムナカタ)氏の名も、胸に龍蛇を表すウロコ形の文身(入墨)をしていたことから付いたといわれている。

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 このあたりは人気のサーフスポットであるらしい。湖岸に鎮座する磐座のうしろを、ウインドサーフィンを楽しむ若者が横切っていく。その先には、長命寺山と津田山(別名奥島山)、その左に琵琶湖に浮かぶ有人の島・沖島(おきのしま)が見える。
 津田山には大島奥津島神社がある。 古くは大島・奥津島の二社が別所に祀られていたが、のちに当地に合祀されたという。 祭神は大島神社が大国主命、奥津島神社は宗像三女神の奥津島比売命(おきつしまひめ)。ともに延喜式に記載された式内社である。

 今日では、忘れ去られてしまったようである藤ケ崎龍神の記憶と記録だが、この地はかつて、遠く離れた神体山を拝むための遥拝所であったのだろう。
 磐座とウインドサーフィン、そして後景の神体山が織りなす光景は、ちょっとちぐはぐではあるが、私には微笑ましく感じられた。湖岸から望むこの風景のなかに、秘められた神聖感は壊されることなく今日まで継承されている。

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2015年4月25日 撮影

洞窟の前にカラス除けの金網が置かれている。
内宮参拝者はこの金網をどけて中に入ることができる。


洞窟の中が藤ケ崎龍神の「内宮」となっている。
奥に小さな祠があり、その前に陶器の蛇が置かれている。

平安時代前期の宮廷画家・巨勢金岡(こせのかなおか)が、この地を訪れて風景を描こうとしたが、
あまりの絶景のために描くことができず、筆を折ってしまったことから、この地を「筆ヶ崎」と呼ぶのだという。