長命寺山の山腹(標高約250m)にある長命寺(天台宗)山門。西国三十三カ所観音霊場第31番札所。


本堂裏手にある「六処権現影向石」。場所が分かりにくいせいか、ここを見学する人は以外と少ないようだ。

「修多羅岩」。武内宿禰のご神体といわれている。


太郎坊大権現社拝殿の屋根に重なる「飛来石」。
 長命寺は琵琶湖の東岸、奥津島山(おくつしまやま)連山の西に位置する長命寺山(333m)の山腹にあり、山の麓には琵琶湖遊覧船や沖島への定期船の発着港「長命寺港」がある。長命寺は西国三十三所札所巡りの三十一番、一つ前の三十番は琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺である。かつての巡礼者は竹生島から船で長命寺港に着岸し、ここから本堂へと続く808段の石段を上り参詣するのが巡礼のコースであった。本来であればこの参道を登っていくべきなのだが、時間と体力に制限のある身、不作法を承知で8合目まで車で上がらせてもらう。

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 琵琶湖を眼下に見渡す長命寺は、白洲正子が「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺あたりと答えるであろう」(『近江山河抄』講談社文芸文庫)と絶賛した景勝地である。
 山号は姨綺耶山(いきやさん)。寺の創建は、第12代景行天皇の御代に、武内宿禰(たけしうちのすくね、たけのうちのすくね、ともよむ)が当山に登り、柳の古木に「寿命長遠諸願成就」の文字を彫り、長寿を祈願したという伝承にはじまる。
 その後、聖徳太子がこの地を訪れ、宿禰が彫った「寿命長遠諸願成就」の文字を発見し、これに感銘した。その時、白髪の老翁が現われて、その霊木で観音像を彫り、寺を建立するようにと告げ立ち去ったという。早速、太子は千手十一面聖観音の三尊一体を彫り、推古天皇27年(619)に堂宇を建てて安置、宿禰の長寿にあやかり「長命寺」と名付けたのがこの寺の開基とされる。
 承和3年(836)に野洲郡仁保郷(現近江八幡市十王町)仁保寺の僧頼智が延暦寺西塔の別院として再興。鎌倉初期に近江国守護職の佐々木定綱が本堂以下の伽藍を建立し、以後守護となった佐々木六角氏から度々寄進を受けて発展した。永正13年(1516)、兵火により伽藍のほとんどが焼失。現存する堂宇は大永年間から慶長年間(1521〜1614)にかけて再建されたものという。

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 寺伝に登場する武内宿禰とは、いかなる人物だろう。
 大和朝廷初期に活躍したといわれる伝説上の人物で、「記紀」によれば、第12代景行から第16代仁徳までの5代の天皇に、244年間に渡って仕え、『因幡国風土記』逸文では360歳の長寿を維持したとあり、その風貌も「白髪に白髭の老人」(『古今著聞集』)として描かれている。
 すると聖徳太子の前に現われた「白髪の老翁」とは、武内宿禰の化身であったのか。白洲正子もそのように考えられたようで「近江は神功皇后の故郷であるから、武内宿禰と結びついたのは自然だし、オキナガとか、オキナガタラシという名称も、長寿と関係がありそうな気がする。」と推察している。

 さらに、白洲正子は「沖つ島山」の神奈備信仰(神体山信仰)にも触れておられる。九州宗像大社(むなかたたいしゃ)の沖津宮(玄界灘の沖ノ島)、中津宮(筑前大島)、辺津宮(宗像市田島)の祭祀形態に倣い、琵琶湖の沖合約1.5km に浮かぶ「沖島」を御神体として、奥島山の「大島 奥津島神社」を中津宮に、八幡山(近江八幡市)の「日牟禮八幡宮」が辺津宮にあたると思案する。
 「神功皇后の縁の深い近江に、同じ地名が見出されるのは、偶然ではあるまい。今は祭神もわからなくなっているが、かつては近江の沖の島にも、航海を守る女神が祀られていたであろう。」とする推論はなかなか興味深い。

 私が今回の旅で想起したのは、琵琶湖をめぐる霊地の多くが、比良大神(白髭明神)→ 塩筒老翁(事勝国勝長狭尊)→ 猿田彦命 → 武内宿禰 が「長命」というキーワードでつながっているというアナロジーである。
 近江最古の大社として知られる白鬚(しらひげ)神社の祭神・猿田彦大神。胡宮神社の祭神・事勝国勝長狭尊(塩筒老翁)。長命寺を開闢(かいびゃく)した武内宿禰。どの神も比良大神(白髭明神)の眷属として崇められ、白髪・白ひげの姿で肖像化されている。
 長寿信仰には、古代中国において発達した神仙思想の影響が伺える。琵琶湖周辺には渡来人が多いことから、大陸から渡来した不老長寿の観念が、近江の古層に秘められているのではないだろうか。

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 「磐座」とは神道用語であり、古神道における岩に対する信仰のことをいう。さすれば長命寺のようなお寺に対してこの語を使うのはふさわしくないのだが、本堂の裏手にある「六処権現影向石(ろくしょごんげんようごうせき)」の「影向石」は、神が降臨する際に御座(みくら)とする石(磐座)を意味している。神仏が仮の姿となって,この世に現れることを「権現」というから、現在の寺観に関係なく、やはり「六処権現影向石」を「磐座」と呼んでもさしつかえはないだろう。
 伝承によれば、「六処権現影向石」は「天地四方を照らす岩」という意味で、長命寺を開闢した武内宿禰が、この岩に祈願し、長寿をまっとうしたという。現在は、本堂の影に隠れて、どこに岩があるのか迷うほどだが、かつては麓、そして琵琶湖を行き交う船からも遙拝できたと思われる。

 「三仏堂」の左手「護法権現社拝殿」(写真下)の裏山斜面にあるのが、武内宿禰のご神体とされる「修多羅岩(すたらいわ)」。案内板には「修多羅とは、仏教用語で天地開闢 天下大平 子孫繁栄を言う。封じて当山開闢長寿大臣 武内宿禰大将軍の御神体とする。」とある。

 長命寺境内の西端「太郎坊大権現社拝殿」の屋根に頭をぶつけそうな巨石が「飛来石」。修行を極めた太郎坊が長命寺を懐かしく思い、京都の愛宕山から大岩を投げ飛ばして、ここに突き刺さったものと伝えられている。

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2015年4月25日 撮影

慶長2年(1597)に再建された三重塔(重要文化財)。
2014年、こけら葺の屋根が葺き替えられた。

三仏堂、左は護法権現社拝殿。拝殿の奥に「修多羅岩」が見える。


境内からは西南方向を眺める。長命寺湾の右に岡山、中央に近江富士と呼ばれる三上山(432m)が見える。
かつて奥津島山一帯は、入り江・内湖により隔てられた琵琶湖最大の島であったが、
戦後の大中之(だいなかの)湖干拓によって陸続きとなった。