祠の背後に鎮座する岩船。長さは約8m、高さは3〜4mに及ぶと思われる。




側面のなめらかなカーブと上部の平らな形状が舟形に似ている。


祠には比良大神(白髭明神)を先導してきた津速産霊神(つはやむすびのかみ)が祀られている。
 岩船とは、文字どおり岩で造られた神の船のこと。磐船・岩船伝承は各地に残されているが、まず頭に浮かぶのが、大阪府交野市の磐船神社だ。この磐船は「天の磐船」と呼ばれ、天上の神々の世界から、河内国の哮ケ峰(たけるがみね)に、さながら空を飛ぶ宇宙船の如き姿で舞い降りてきたという。
 一方、猪子山の岩船は、「高島比良の山より湖上をこの地に渡りたもうた比良大神(白髭明神)が御乗船されたもの」(案内板)とある。波穏やかな湖上を悠然と渡航する岩船のイメージ、さしずめ陸をも走る水陸両用車の姿が思い浮かぶ。

 岩船神社は、湖東平野の中央部にある繖(きぬがさ)山連峰の最北端、猪子山(267.5m)のふもとにある。猪子山公園に隣接する上山天満天(うえやまてんまんてん)神社の末社と位置づけられ、岩船の前に祠と石の鳥居が建てられている。
 「高島比良の山」は、琵琶湖の対岸(湖西エリア)に連なる比良山系(比良山という独立峰はない)のことで、比良山系のふもと高島町鵜川には、近江国屈指の古社・白鬚(しらひげ)神社がある。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)とされるが、社殿の背後に聳える比良山系を神体山とする「比良明神」で、近江の国を象徴する地主神である。神社の略記には、祭祀は古代から始まり、垂仁天皇25年皇女倭姫命が社殿を再建、天武天皇白鳳2年(674)比良明神の号を賜ったとある。

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 岩船神社の由緒に登場するのは比良大神だが、本社の上山天満天神社の由緒には、菅原道真公の御神霊が比良の山より乗船し、繖山のふもとに来着したと伝えられている。湖上を東に渡りやってきた比良大神と菅原道真公。比良大神は神亀5年(728)、道真公は天慶年間(939〜946)のこととされる。まるで琵琶湖横断の定期航路「岩船丸」が就航していたかのようである。

 菅原道真公の伝承は、おそらく比良大神の岩船伝承に倣い、後世につくられたものと思われる。道真公にまつわる天神信仰が全国に広がるのは平安時代中期からであり、神社成立以前からの祭祀形態である巨石信仰とは時代が合わない。
 神社信仰の原初は、縄文時代に萌芽し、古墳時代の終わりごろ(6・7世紀)に神社成立の基盤が整い、社殿建築が造られるのは早くても8世紀中頃以降のことである。したがって、道真公が岩船に乗り湖上を渡るというイメージを思い描くには無理があるように思う。

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 岩船神社周辺には、古墳時代後期(5〜6世紀)にかけて造られた横穴式石室を持つ約40基の小規模円墳が点在している。
 古墳の被葬者は明らかでないが、湖東地域は渡来人と関係の深い土地である。『日本書紀』には、天智天皇8年(669)、滅亡した百済からの渡来人700名余が近江国蒲生野(がもうの)へ移住したとの記述がある。
 また『続日本紀』に、天平宝字2年(758)、仁徳の世に高麗(こうらい)から転じて聖朝に帰化した近江国の神崎郡人正八位下・桑原史人勝(くわはらのふひとひとかつ)ら男女1,155人が、史(ふひと)の姓は不比等と同音であるためこれを改め、桑原直(あたい)の姓を賜ったことが記されている。
 これらの資料から勘案すると、猪子山地域には高句麗から渡ってきた渡来人・桑原氏一族が居住し、大きな勢力を持っていたと見られ、猪子山古墳群の被葬者は桑原氏のものとの見方が強い。

 猪子山の岩船は、周囲に点在するこの古墳群の存在を考慮に入れて検討する必要がある。
 「神社の起源は古墳である」といったのは谷川健一氏だが、岡谷公二氏も同意見で、『原始の神社をもとめて』(平凡社新書)のなかで、「神社と古墳との結びつきをどのように考えるべきか。神社の神域内に古墳を設けたとするより、古墳を祀るために神社が創祀されたとする方が自然である。本殿そのものが古墳の上に建つ神社、あるいは本殿のすぐ裏に古墳のある神社の多さは、このような推測の大きな根拠をなす。」としていくつかの例をあげている。また、金達寿氏も『古代朝鮮と日本文化』(講談社学術文庫)のなかで、神社の起源について、祖神に対する信仰から発生したものと考え、「古墳時代が終わって、古墳をつくる代わりに豪族がさかんに自分たちの氏寺を建てる。その氏寺をまねてできたのが、神社・神宮の建造物であるわけで、初期のころはおそらく神社・神宮の形というのは、古墳があって、その近くに古墳を礼拝する祭壇があったと思うんです。その祭壇がいわゆる前方後円墳なるものの前方部だったりして、そういうことから、のちにはそれがだんだん神社・神宮化するということがあったと思います」と述べている。

 猪子山の岩船も、こうした古墳祭祀から神社祭祀への変遷を示す1つの事例となるものではないだろうか。
 岩船を岩で造られた神の船と見るのではなく、祖神を礼拝するための祭壇と解釈するのも一考の余地があろうと思う。

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2015年4月25日 撮影

猪子山14号古墳。横穴式石室で、
羨道はしゃがみ込まないと入れないほど狭いが、
玄室は長さ約3.4m、高さ約2.7mと広い。


案内板。
猪子山古墳群を含む繖(きぬがさ)山一帯には、
古墳時代後期の古墳100基以上が分布している。

案内板。
猪子山山頂の北向十一面観音堂周辺にも磐座がみられる。