2つの石に載っているように見えるが、支えているのは右側の石だけ、左の石とはわずかに隙間がある。


 笠石の大きさは幅7m、奥行き5m、厚さ2m。


鳥居状の隙間は、人が立ったまま通り抜けることができる。
 国道396号線の道路脇に駐車場があり、そこから鳥居をくぐり山道を15分ほど歩く。
 続石は、柳田國男『遠野物語』の増補版にあたる『遠野物語拾遺』11話に登場する。短文なので全文を引用する。(大和書房 1972 より)

 綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居の様に人が通り抜けて行くことが出来る。武蔵坊弁慶の作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をする為に、一旦この笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、―生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜中泣き明かした。弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運び、今の台石の上に置いた。それ故に続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時から附いた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。

 弁慶がドルメンを造ろうとして、巨石の上に笠石を乗せるが、乗せられた石は「自分は位の高い石なのに、こんな石を乗せられて残念……」と、一夜じゅう泣き明かす。それなら他の石に代えてやろうと、弁慶は再び笠石を持ち上げて、今の台石の上に置いた。というお話。

 この説話を読んでまず気づくのは、巨石を軽々と持ち上げ、笠石に足形の窪みまでつける弁慶は、イコール、ダイダラボッチ(巨人)そのものであること。弁慶に笠石を乗せられて「自分の方が位の高い石なのに」と泣く石は、神霊が宿る石であり、すでに神格をもった存在であること。そして、「一生永代他の大石の下になるのは残念だ」と嘆くあたりは、単なる泣き石伝説とは異なる石成長伝説に近いものであること。この3点である。
 さらに、『遠野物語』91話に、続石のそばで、里人が山神と出会う話がある。
 鳥御前という鷹匠が、続石の少し上の山に入り、赭(あか)き顔の男女と遭遇する。鳥御前が戯れに刃物を抜くと、たちまち赭き顔の男に蹴り飛ばされ、気絶してしまう。連れに介抱されて家に帰ると、自分は死ぬかもしれないが、このことは誰にも話すなといって、三日ほどで死んでしまう。山伏がいうには、山の神たちが遊んでいるところを邪魔した故、その祟りをうけて死んだという。
 続石の奥の山とは、遠野三山のひとつ石上山(『遠野物語』では石神山)のこと。綾織村山口の字名は、石上山への登山口でることを示している。続石の周辺が、人間界と異界との境界域であったことを物語っている。

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 「ドルメン」とは支石墓(しせきぼ)のこと。数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、ブルトン語で dol は「卓」を、men は「石」を意味する。支石墓は、西ヨーロッパ、インド南部、東南アジア、中国沿海部と広範囲に分布するが、数においては朝鮮半島がもっとも多く、支石の足が長い「北方式」と短い「南方式」に分類される。

 日本には、縄文時代晩期の九州北西部に出現し、弥生時代の前期に終焉する。形態はいずれも支石の短い「南方式」で、朝鮮半島の支石墓に比べ規模も小さい。
 2000年に世界文化遺産に登録された、韓国の高敞(コチャン)・和順(ファスン)・江華(カンファ)の3つの支石墓のうち、北方式支石墓では最大の「江華コインドル」が、続石の形態ともっとも類似している。

 続石の笠石は幅7m、奥行き5m、厚さ2m。江華支石墓よりも大きく、重さは「石宝殿」の約500トンから推量して、およそ120トンぐらいではなかろうか。
 大筋では、この地域に石の多いことから、土石流などによってつくられた自然の造形物と考えられているが、人為的に造られた巨石記念物であると証明できれば、遠野の世界遺産登録もまちがいなし? かも知れない。

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 最後に、続石の名前の由来が分からない。何に対して「続く」の意なのか。一生永代の「続く」では、しっくりこない。分かり次第追記します。

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2008年4月25日撮影
続石のそばに、ひっそりと鎮座する泣き石。


不動石と呼ばれる巨大な一枚岩。















【案内板】


続石の周辺。山の斜面いたるところに巨石が埋もれている。