山中に突き出た高さ9mの羽黒岩。もとは一つの石だったと思われる。






形は、修験道にいわれる「行道岩」と似ている。
 羽黒岩は、柳田國男の『遠野物語拾遺』10話に登場する。

 綾織村字山口の羽黒様では、今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名を矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐り倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃(やじり)は光明寺に保存せられている。(大和書房 1972 より)

 この説話を読んで思い出すのは、うべなはぬ神・甕星香々背男(みかぼしかがせお)が登場する「宿魂石」の物語である。
 巨石に変じ、日々成長する甕星香々背男(みかぼしかがせお)を、武神・武葉槌(たけはづち)命が、金の沓で蹴り上げる。成長する悪しき神を、もう一方の神が蹴り上げるという設定が、羽黒岩の伝説ときわめて酷似している。
 さらに、矢立松のエピソードに坂上田村麻呂が登場する。周知のとおり、田村麻呂とは蝦夷(えみし)征伐の征夷大将軍である。
 果たしてこの地が、「宿魂石」と同様に、大和朝廷に服属しない「うべなはぬ者」たちの領域であったと見て、ほぼ間違いあるまい。

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 事実、この伝説の通りに田村麻呂は遠野の地に足を踏み入れたことがあるのだろうか。
 東北征夷に田村麻呂が登場するのは延暦10年(791)。この時はまだ副将軍で、征夷大将軍に任じられるのは、6年後の延暦16年(797)である。  延暦20年(801)2月、田村麻呂は節刀を賜り、軍勢4万を率いて第3次東北征夷に発つ。この時の征夷については詳しい資料が残されていない。しかし、弘仁2年(811)12月の文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)の詔に、「故大納言坂上大宿禰田村麻呂等を遣して、伐ち平げしめ給うに、遠閇伊村(とおへいむら)を極めて、略掃い除きてしかども」云々とあり、これが延暦20年の征夷の成果を記したものと思われる。
 閇伊地方とは、岩手県東部山岳地帯を指す。遠閇伊村については諸説あるが、ここでは今日の遠野市を含む地域であると考えたい。
 『角川日本地名大辞典・岩手県』では、閇伊地方の奥地帯、「遠く閇伊の奥まで」という程度の意味とされているが、吉田東伍の『大日本地名辞書』には遠閇伊村とは遠野市であると記されている。

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 「羽黒岩」のわずか7行の民話から、古代東北で大和朝廷軍と攻めぎあう「まつろわぬ民」蝦夷たちの姿が見えてくる。
 延暦21年(802)、蝦夷のリーダー・阿弖流為(あてるい)が500余人を率いて朝廷軍に降伏。そして平安京に連行され、翌年、田村麻呂の助命も空しく斬首。弘仁2年(811)、文屋綿麻呂による終結宣言が出され、古代東北の38年戦争は終わりを告げる。

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2008年4月25日撮影
羽黒岩の登り口は、このジャンボ下駄が目印。


鳥居脇に立てられた標識に「羽黒岩 400m」とある。






【案内板】

 矢立松について、柳田に『矢立杉の話』という小編がある。
樹に矢を射るという行為は、敬神の意味からであり、
神木に対し「古人が信仰を以て武運を祈り、
或いは旅路の平穏を祈って、矢を立てた」のだと記している。 『定本柳田國男集』第5巻、筑摩書房


岩の脇にある羽黒堂では、毎年旧暦の12月17日に、地域の男性が夜通し酒を酌み交わしながらの堂篭りが行われる。