高さ1.5m。遠野では最大級のコンセイサマ。


形状の見事さから自然石であるとは思えない。あきらかに人の手で加工仕上げされている。


境内に置かれていた男根石(左)と女陰石(右)。
 コンセイサマは金精様。あるいは金勢、金清、金生、魂生、根性、根精様などとも書かれ、別称には、かなまら様、お駒様、道鏡様、しゃくじん、男石様など、地方によりさまざまな呼称をもつ。
 性にかかわる信仰は、縄文時代中期の石棒に始まり、魂や霊魂、農作物の豊穣、縁結び、子授け、出産、葬送などにまつわる古層の神として、庶民生活の中に浸透し生き続けてきた。
 しかし、明治の神仏分離・拝仏毀釈運動では、こうした民間信仰は“淫祠(いんし)邪教”の代表的なものとして取り締まられ、膨大な数の石神が破壊され消滅してしまう。山崎のコンセイサマもこの時代に撤去処分されたのだろう、一度姿を隠したものが、昭和47年に発見されて改めて祀られるという経緯をもつ。

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 柳田國男『遠野物語拾遺』16話に、コンセイサマにまつわる怖い話しがある。

 土淵村から小国へ越える立丸峠の頂上にも、昔は石神があったという。今は陽物の形を大木に彫刻してある。この峠については金精神の由来を説く昔話があるが、それとよく似た言い伝えをもつ石神は、まだ他にも何か所かあるようである。
 土淵村字栃内の和野という処の石神は、一本の石棒で畠の中に立ち、女の腰の痛みを治すといっていた。畠の持主がこれを邪魔にして、その石棒を抜いて他へ棄てようと思って下の土を掘って見たら、おびただしい人骨が出た。それで崇りを畏れて今でもそのままにしてある。故伊能先生の話に、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。(大和書房 1972 より)


 石棒の下に人骨が埋まっている。という伝承の原型と呼べそうなものが、約4000年前に造られたストーンサークルではないだろうか。秋田県鹿角市の大湯環状列石の中心にある立石の地下から、高等動物の脂肪酸が検出されたことで、ストーンサークルが縄文人の墓であるという説が有力になっている。
 また、縄文晩期の「金生遺跡」からも男根型の石棒が見つかっている。この配石遺構は墓地を中心とした祭祀性の強い遺構であり、石棒は「誕生と死」を媒介とする祖霊信仰のシンボルと考えられる。

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 柳田は『石神問答』の中で、石神は即ちミシャグチであり、ミシャグチは、塞(さえ)の神に由来している、と述べている。塞の神は、岐神(ふなどがみ)とも呼ばれ、村の境域に置かれて外部からの邪悪なものの侵入を防ぐ神である。これが金精神や旅の守護神・道祖神、地蔵などと習合して、現在の複雑な信仰形態をもつにいたる。

 石棒の下に人骨が埋まっている。という伝承は、性信仰が、農作物の豊穣、縁結び、子授け、出産などの民間信仰と結びつく以前に、祖先の霊を祀る神であったとことを、今に示すエピソードなのではあるまいか。

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2008年4月25日撮影

コンセイサマが鎮座する社殿



社殿の横に置かれた、たすき状に輪をかけた祖先神。
コンセイサマの一種と思われる。



【案内板】


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