標高1,625mの岩木山。左に赤倉参道入口の大鳥居が見える。
鳥居をくぐり右手に進むと赤倉山神社。そのまま進むと大石神社境内に入る。


石垣の中に本殿、その後ろに御神体が鎮座している。


手前の石は高さ2m位で岩肌も露わだが、奥の石は苔に覆われている。


菅江真澄が訪れた210年前には、石垣もなく、石の間に石割松や杉が生えていたという。




後方より眺める。右手に馬の像が奉納された小さな祠が見える。
 別名「津軽富士」とも呼ばれ、県内最高峰を誇る岩木山(標高1,625m)は、弘前市および鰺ヶ沢町にあって、津軽平野のどこからでも秀麗な山容を見ることができる。津軽における山岳信仰の代表的な山であり、山名の「岩木山」にも、巨石信仰とのつながりがうかがえる。「イワキ」とは、「石の城」という意味のほか、アイヌ語の「イワ―ケ」(岩・所)がなまったという説、さらに「カムイ―イワキ」(神の住む所)からきたという説があり、いずれも神聖な山の意を示している。
 南麓の百沢には津軽一帯の信仰を集める岩木山神社、山頂には岩木山神社奥宮があり、大石神社は岩木山の北東麓に位置している。

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 当神社のある大森地区内には、上宮、中宮、下宮の3つの大石神社がある。カーナビの地図上にある大石神社を安易に目的地に設定し、何も知らず下宮に訪れた私は、まるで様子の異なる境内に、狐につままれた思いをした。
 あらためて、問題の巨石は大石神社上宮の拝殿の裏にある。拝殿の裏壁に接してU字型の石垣がめぐらされ、その中に本殿と御神体の巨石が鎮座している。御神体は2つの大石からなり、陰陽石のように見える。
 江戸時代の紀行家・菅江真澄も、寛政10年(1798)6月2日、赤倉山登山の際に大石神社を訪ねている。『菅江真澄遊覧記』 「外浜奇勝」 に、その時の様子が記されている。
 「野中に松が群立ったところは、大石明神という。神前に大きな伏した岩や立った岩のある間に、石割松、いしわり杉が生えていた。その大杉の下枝に紙がびっしりと結びつけてある。これは乳の乏しい女が祈願したのであり、また、恋の願いをかけ、愛しあう夫婦の仲がいつまでも変わらぬようにと、杉の下枝に紙をむすび、その験(しるし)を得るためであるという。」

 祭神は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)である。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、両神が対になって男女の「むすび」を象徴する神であると考えられることから、真澄の記載どおり、大石神社が安産・縁結びの神様として、津軽地方では有名であったというのもうなずける。

 一方で、かつては千引大明神と呼ばれていたという伝承もある。千引石はイザナギが黄泉の国を脱出する際、千人で曳くほどの大きな石をかかえて、黄泉比良坂(よみのひらさか)の登り口を塞いだという伝承になぞらえたもの。巨石のもつ霊力によって、他界からの悪霊邪気の侵入を阻止する「塞の神」信仰に基づくものであり、【大石神社 由緒】(文末に掲載)の最後にある、赤倉山霊界との境界石とも考えられる。


赤い鳥居が連なる参道の先に拝殿が見える。

 
参考資料◎『菅江真澄遊覧記』3 平凡社ライブラリー


境内には、数多くの馬の像が20体近く奉納されている。絵馬の原型を見るようだ。
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 境内にはもう一つ、ひときわ目をひくものがある。白馬の像が奉納されている祠群、数は20基を超えるだろう。絵馬が巨大化、立体化して、こちらを向いて整列しているような不思議な光景だ。
 馬は農耕や交易などの労働力として、家族のように大切にされてきた。馬の像は、馬の守護神として信仰され、奉納されたものなのか。
 『続日本紀』に、神の乗り物として生き馬を神社に奉納していたことが記されている。その後は、生きた馬の代わりに土や木製の馬を、さらに馬を描いた木製の額に馬の絵に描いて献上した。これが絵馬の起こりで、多くの絵馬が五角形をしているのは、板の上に屋根をつけていたときの名残りといわれている。

 馬の祠の最終列、大石川の清冽なせせらぎが流れる川っぷちで、「竜神御鎮座所」と書かれた立て札に目に留まる。
 龍神と馬とせせらぎ――。そこで思い出すのは、『日本書紀』皇極元年(642)の「或は牛馬を殺し、諸杜の神を祭る」という雨乞いにまつわる記載だ。馬の首を切って神に捧げるいけにえの儀礼は、大陸的なシャーマニズムの痕跡を残すものとして、実際に行われていた儀式である。
 柳田国男は『山島民譚集』河童駒引の章で次のように述べている。
 「牛馬ノ首ヲ水ノ神ニ捧グル風ハ、雨乞ノ祈祷トシテハ永ク存シタリキ。朝鮮扶余県ノ白馬江ニハ釣龍台ト云フ大岩アリ。唐ノ蘇定方百済ニ攻入リシ時、此河ヲ渡ラントシテ風雨ニアヒ、仍テ白馬ヲ餌トシテ龍ヲ一匹釣上ゲタリト云フ話ヲ伝ヘタリ(東國輿地勝覧十八)。白キ馬ハ神ノ最モ好ム物ナリシコト、旧日本ニ於テモ多クノ例アリ。」

 巨石信仰と龍神信仰が隣り合わせる、不思議な景色をもつ神社である。

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2008年4月26日撮影

拝殿のシャッターが降されたまま。参拝者はほとんどいない。

 
参考資料◎『定本柳田國男集』27 筑摩書房

御神体のある石垣の傍らに「竜神御鎮座所」と書かれた立て札がある。後方に大石川が流れている。

【大石神社 由緒】
 慶長年間(1596〜1615) に、津軽為信が十一面観音を勧請したことに始まると言われている。 別当は百沢 (ひゃくたく) 寺で、荒廃していたのを正徳5年(1715) に村民によって再興され、 同年に京都の吉田家から明神号を与えられ大石大明神となった。 享保4年(1719) 五代藩主津軽信寿が再建された。 縁結びの神とされているが、 菅江真澄の 「外浜奇勝」 によると、 「野中に松の一郡たてるは大石明神とて、 御前に大なるふし岩、 たち岩のあるあはひに、 石割松、 いしわり杉の生たり。 その大杉の下枝に紙をひしひしと結び付けたり。 こは乳の乏しき女の願ひ、 はた、 懸想しける願ひもありて、 おもひあふいもとせのなかのいく世を、 杉のもとつ葉の、 かはらぬ験をうるとなん」 とある。 御神体は巨石であり、 岩木山登拝口の赤倉山霊界との境界石とも言われている。