ご神体は高さ2mくらい、奥行きは約3mほど。目玉部分には強い磁力があるという。


右目が天照大神(アマテラスオオミカミ)、左目が月読之命(ツキヨミノミコト)をあらわすとされる。


「三面山を以てめぐらし、老樹うつそうと繁り、一面渓流山間をぬい、俗塵をはなれた霊地にある。」
(神社由緒より)
訪ねたのは4月下旬だが、あたりにはまだ雪が残っていた。秘境とはいわないが、行くにはそれなりの注意が必要。


かつて、左目の窪みから水が湧き出し、右目の窪みに溜まっていたが、現在は枯れてしまったという。
鳥居から川を渡ったところに「水神さま」と呼ばれる湧き水がある。ペットボトルに詰め持ち帰る人も多い。
 青森市内から県道27号線を南下し、入内(にゅうない)川に沿った一本道を八甲田山系の山並みに向かって進む。ほどなく右手に小金山神社(入内観音)、1Km先に入内集会所。さらにその先のY字路を左に進んで、未舗装の林道を5Kmほど走ると、社務所等の建物がある広場に出る。ここに車を置き、鳥居を潜り石段を登る。
 石神神社のご神体は、巨石記念物のメンヒル(立石)や「神域」としての磐座とは異なり、石自体を神とする「石神様」として、社殿の裏に鎮座している。

 ご神体は、自然の造形物とは思えない異形な面貌の人面石である。大きく窪んだ眼窩から放つ、魔界の底から魅入るかのような視線に、一瞬たじろいてしまうほどの迫力がある。いかなる自然の作用で、神とも魔物ともつかぬ石が生まれたのか。たかが石ではないかと言い聞かせつつ、怖々とファインダーを覗き、恐る恐るシャッターを切る。

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 伝承によると、石神様の発見者は、隣村の小館村に住む長内弥十郎という杣人(そまびと)であったという。目を患った弥十郎は、ある日、駒田山の清水で目を注ぐと、眼病が治るという不思議な夢を見た。翌日、杖にすがり駒田山に分け入ると、夢で見たのとまったく同じ風景に出合い、そこで不思議な自然石「石神様」と遭遇する。さっそく「石神様」の目の窪みから湧き出る清水で目を洗うと、弥十郎の目は、夢のお告げの通りたちどころに治ってしまう。
 この話は、やがて村人から村人へと伝わり、眼病や難病に効果があるとして、その霊験が喧伝され、多くの信仰を集めるに至ったという。
 青森市教育委員会からいただいた資料にも、「石神信仰の草創は不詳なるも、徳川中期より信者、行者が参籠していた」とあり、弥十郎の「石神様」発見の伝承は、話の流れからすると江戸中期以前となる。これほどインパクトのある「石神様」である。噂が広まり、押すな押すなの大人気になったと思われるのだが。実際はいかがなものか。

 柳田國男に「民俗学の祖」と評された旅行家・菅江真澄は、江戸後期の寛政7年(1795)、8年の2度にわたり入内村を訪ねている。目的は黄金山神社(小金山神社)参拝で、入内村の村長の家に泊めてもらうなど、村人と交流をもっていたが、「石神様」に関する記述は『遊覧記』にまったく見られない。真澄が旅した江戸後期において、「石神様」の存在はほとんど知られていなかったのではないだろうか。
 『角川日本地名大辞典・青森県』によると、明治24年の入内村は、戸数14・人口119。同43年に、集落内を通り山地へ向かう駒田林道が整備されたが、山中で行き止まる。と記されている。当時、石神神社に至る満足な登山道はなく、明治末期まで、ここが窮僻(きゅうへき)の地だったことがうかがえる。

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 明治初年(1868)の神仏混淆禁止令により、神社の形態が整っていないという理由で、石神神社の信仰は禁止される。しかし、秘かに山懐に詣で、こっそりと霊水をくみだす人が絶えないため、ついに石を破壊しようと石工が派遣されるが、石工が石に触れると手がしびれ、氷雨が降るという奇異な現象が起きる。これに驚いた石工は怖くなって逃げ出し、ついに石神様を壊すことができなかったという。
 その後、明治38年(1905)、三上東満(みかみとうまん)氏によって、再び神社は開山され、現在に至る。

 石を廃棄しようとして、奇異な現象に襲われるという話は、石の伝承によく出てくるエピソードで、後から付けたされた話のように思えるのだが、石工の逃げ出したい気持ちはよく分かる。
 現代人の私は、石に神霊が宿るというアニミズム的感性はすっかり失っていると思っていたが、「石神様」を前にして、たかが石に対する畏怖の念を、この場所にいる間、終始感じていた。縄文時代とはいわないまでも、150年くらい前の、神霊に対する呪術的な恐れを、ほんの少しだが感じることができた。そんな気がする。

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2008年4月27日撮影

約50段の石段を登ったところに社殿がある。


石神神社社殿。裏側にご神体が鎮座されている。


社殿内部。
祭神は天照皇大神、月夜見大神、大山祇大神。



【案内板】