厚さ約1mの板状節理で削り取られた巨石が、カツラの木に寄りかかり岩屋を形成している。
板石を支える2本のカツラの巨木。昭和63年8月、地上4mのところで折れてしまった。
「いしけど」と読む。十和田湖畔の子ノ口(ねのくち)から、日本一の渓流美といわれる奥入瀬(おいらせ)川を9km下った「石ヶ戸休憩所」下の川沿いにある岩屋のこと。岩板の厚さは約1m、長さ10m余の溶結凝灰岩で、2本のカツラの巨木がこの大きな石を支えている。
昔、この岩屋に「鬼神のお松」という美女の盗賊が隠れ住み、旅人から金品を奪っていたという伝説が残る。
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なぜ、この地に「鬼神のお松」なのか、今ひとつ、その結びつきがよく分からない。鬼神、または鬼人のお松といえば、嘉永6年(1853)に売り出された錦絵『三幅対』で、石川五右衛門、児来也(じらいや)と並び「日本三大盗賊」の一人として描かれ、歌舞伎『新板越白浪(しんぱんこしのしらなみ)』に毒婦として登場した別名「女児来也」のこと。まずは、角川『日本伝奇伝説大事典』から仕入れた「鬼神のお松」伝説のあらましを紹介しよう。
お松はもともと深川の遊女だったが、仙台藩士の立目丈五郎に見初められ、江戸から仙台に移り住み、丈五郎の女房となった。女の子も生まれ、幸せの中にあったそんなある日、夫・丈五郎が御前試合のもつれから剣道指南役の早川文左衛門に殺されてしまう。
愛する夫を殺されたお松は、仇討ちを決意し、夫の仲間・稲毛甚斎に助太刀を頼みに京都を訪ねた。しかし、非道な稲毛は、助太刀の交換条件にと、お松の体を求めてきた。これを必死で防ぐうち、お松の懐剣が稲毛の胸にグサリと突き刺さった。この殺害が転機となって、お松の性格が毒婦へと一変する。
仙台に戻ったお松は、早川文左衛門にコネをつけ、一緒に一ノ関への旅に出る。衣川を渡るとき、色っぽくねだって背負ってもらい、川の深間に差し掛かると懐剣で早川を刺し殺し、ついに本懐を遂げた。
その後、一ノ関から金岳山に向かったところで、山賊・三島権右衛門の一派に襲われるが、ここでも権右衛門の隙を突いて盗賊を従え、権右衛門に変わり山賊の女頭目になってしまう。この時から「鬼神のお松」と呼ばれ、笠松峠を拠点として附近の村々を荒らし回り、賊退治に出向いてくる腕自慢の剣士たちを次々と返り討ちにしてゆく。
天明3年(1783)、夫の仇の息子、早川文次郎という18歳の青年があらわれ、金岳山の仇討ちとなり、あえなくお松の首を落とされる。異説によれば、お松は抵抗することなく、文次郎に父の仇を討たせてやったという。
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各地に残るお松の伝説も、地方によって枝葉末節がさまざまに異なっている。石ヶ戸の場合は、美しい女盗賊お松が、石ケ戸を住処として道行く旅人から金品を奪っていた。その手口というのは、旅人が現れると先回りして、行き倒れを装い、介抱してくれた男の隙をみて短刀で刺し殺す。あるいは、旅人の背を借りて川を渡る振りをして、流れの中程にさしかかると、いきなり短刀を振りかざすというもの。こうして、お松の毒牙にかかった男は48人いたという。
ある日、49人目の旅人・仙台の夏目仙太という侍が通りかかる。お松の色気あふれる仕草のなかに、異様な殺気を感じた仙太は、お松がそおっと懐の短刀を取り出し、突き刺そうとしたその瞬間、背負うていたお松を投げ飛ばし、一刀両断のもとに成敗してしまう。
奥入瀬渓流は、歩道と渓流との間の段差が少なく、清冽な流れはすぐ足元を流れている。石ヶ戸周辺の流れは、比較的おだやかで、旅の男がお松を背負って渡るには、格好の場所といえる。このロケーションの良さが、お松の物語が誕生した理由なのか? さしあたりこの程度のことしか思い浮かばない。
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2008年4月27日撮影
岩屋の中は、雨宿りには最適。
【案内板】
石ヶ戸の前を流れる奥入瀬渓流。旅人の背を借りて川を渡るシーンには、格好の舞台だ。