御所野(ごしょの)遺跡は、岩手県の北部、一戸(いちのへ)町で発見された縄文時代中期後半(約4,500年前) の大規模な集落の跡地である。青森県へと北流する馬淵川東岸の標高約200mの河岸段丘上に位置し、その広さは東西500m、南北150m、約6.5haにもおよぶ。
発掘調査は町の農工団地造成計画にともない平成元年(1989)から始められた。遺跡の中央部に、小規模の組石がサークル状に連なる配石遺構があり、それを中心に東西に集落が配置され、竪穴住居跡は全体で約600棟あることが確認された。
中央部の集落では、広場の機能も備えた配石遺構群の周りに掘立柱建物をめぐらし、その周囲に竪穴住居を馬蹄形に配置している。こうした計画的に造営された典型的な環状集落の構造は、中央部が遺跡全体の拠点的な性格をもった集落であることを示している。
中央部、東側、西側の集落すべての住居の出入口が配石遺構を向いている。このような住居の構造から、縄文人の生の世界と死の世界との一体感。さらに、集落住人の共通の意識をもって共同体の結束を強めようとした痕跡がうかがえる。中央の墓地は、埋葬が終わると広場に戻り、集落の人々は、その上で共同作業や祭りを行っていたと考えられる。
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平成8、9年度の調査では、同時に火災に遭ったと思われる竪穴住居が見つかった。住居の床面から赤い焼土が見つかったことから、この焼失住居が土葺き屋根であったことが明らかになった。
土葺き屋根は、シベリアや中国北部など北方民族の住居に多く見られるが、当時の日本の一般的な竪穴住居は、茅葺き、または樹皮葺き屋根と考えられてきた。焼失住居の発掘は、こうした定説を覆し、全国的にも類例のない縄文時代の土葺き屋根の存在が実証された。
土葺き竪穴住居の優れている点は気密性だ。夏は涼しく、冬は冷たいすきま風に悩まされることもない。気候が寒冷化に向かう縄文中期以降に考案された、縄文人の快適な住居といえる。
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御所野縄文博物館(平成14年オープン)に展示されている「鼻曲り土面」は、御所野遺跡の北方約3kmの地点にある蒔前(まくまえ)遺跡から出土した。長さ18cm、幅11cmで、顔全体が右から左へゆがんでいて、太いヒモ状の鼻は右に大きく曲がっている。また、顔の一部に赤色顔料が残っていることから、当時は全面が赤く彩色されていたと思われる。
一見ユーモラスな表情にもみえるが、土面は、精霊や祖先など、死者に関連するものと考えられ、「鼻曲り土面」は、悪霊を表したもの(大林太良氏)とする説もある。顔の両側には紐を通すためと思われる孔があり、仮面として被っていた可能性もあるが、鼻の裏面にくぼみがないことから、人の被る面ではなく、木あるいは植物質など腐食しやすい材質の像にとりつけたとも推測される。土面の多くは縄文時代後期から晩期の所産である。
遮光器土偶は、東北地方北部で生み出された縄文土偶の雄である。あまりの奇抜さから、宇宙人をモデルにした土偶とする珍説も生まれた。NASAが関心を示し、調査を行ったという逸話まである。北方民族のイヌイットが、雪の光線から眼を守るために使用した遮光メガネに似ていることから「遮光器土偶」と名づけられた。ことさらに大きく、横一文字に閉じられた両眼は、静かに眠る死者のイメージと結びつく。
土偶や土面は、あらゆる遺跡から出土するわけではない。遺跡によって差があり、多数出土する遺跡は、大型竪穴建物や配石遺構などの特殊遺構を有する遺跡で発見される傾向がある。小林達雄氏は、土偶や土面を多数保有する集落は、より広汎な地域における中心的存在を示すものであり、人間の死と再生に関わるなんらかの祭祀的な機能や意義をもっていたと指摘している。
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2008年4月27日撮影
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円筒上層式土器。縄文中期の土器で、口に4つの突起がある。北海道西部・東北北部で多く出土する。円筒下層土器が前期後半に、円筒上層土器が縄文中期に相当する。
鼻曲り土面(縄文晩期 国重要文化財)
遮光器土偶(縄文晩期)
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