唐松神社の宮司・物部家の邸内に鎮座する唐松山天日宮。同心円状に池と築山が配されており、池の直径は約20m。


境内一面に自然石が敷きつめられている。社殿は今からおよそ100年前の大正3年(1914)に完成した。

 秋田県のほぼ中央部、大きく蛇行する淀川のほとりに鎮座する唐松山天日宮 (あまつひのみや)。日本全国に8万社とも10万社ともいわれる神社のなかで、これほど異彩を放つ神社はめずらしいだろう。神社建築の枠をはるかに超えた、SF的ともいえるその神域は、なんとも不思議な気に満ちあふれている。

 進藤孝一著の『秋田「物部文書」伝承』(無明舎出版)によると、大正3年(1914)「天日宮」竣工。昭和7年(1932)に庭園が完成したとある。
 築100年を迎える社殿は、伊勢神宮正殿に代表される神明造りだが、側面に庇(ひさし)状の小型の屋根が造られている。雪対策に施されたものだろうか。棟の上には堅魚木(かつおぎ)が5本。奇数は陽数であり、男神をあらわしている。

 瞠目するのは、池と築山を同心円状に配した特異なデザインと、境内一面に敷き詰められた数十万個ともいわれる自然石から生まれる造形美である。シンメトリーで構成された冷たい幾何学的秩序を、自然石のぬくもりで覆いかくし、人工的な自然ともいえる有機的な建築的秩序を形づくっている。

 グーグルマップの衛星写真(右上)で、天日宮の形を確認すると、あらためて同心円の正確さに驚かされる。やはり天日宮は、一般の神社とどこかが違っている。社務所で貰った「唐松山御縁起大略」には、日本の仏教伝来以前の神社建築様式で築造されたと記されているが、この説明では、設計の意図が何であるのかわからない。この摩訶不思議な建築様式に、どんなメッセージが隠されているのだろう。

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 このメッセージを読み解く鍵となるのが、唐松神社に伝わる秘史「物部文書」である。しかしながら、1984年に発行された『秋田「物部文書」伝承』に、その一部が公表されたが、いまだ大部分は未公開のままである。
 成立年代は不明。真偽のほども明らかでないが、「物部文書」の伝わる物部家は、唐松神社の宮司職を63代、千数百年にわたり継承してきた名家である。秋田物部氏の末流が書き残した伝承であるなら、まことに興味深い「秘史」といえる。

 「物部文書」には、 神武天皇が大和に入る以前に、物部氏の祖神である饒速日命(にぎはやひのみこと)が、秋田県と山形県の境にある鳥見山(鳥海山)に降臨し、日殿山(唐松岳)に日の宮を建てて居住し、原住民と融和した後、より豊かな新天地を目指し大和(ヤマト)へと移動、長髄彦(ながすねひこ)と和睦した後に、神武天皇に帰順したという「超古代の天降り伝承から蘇我・物部の戦い、さらに時代が下がって江戸時代の延宝八年(1680)に佐竹義処(さたけよしずみ)が唐松神社を再建するまでの二千数百年にわたる神話と歴史が記されている」。

 6世紀、仏教導入を巡る蘇我氏との対立に破れた物部氏は、歴史の表舞台から抹消されてしまう。古代最大の豪族・物部氏をめぐる学説は諸説混沌として、いまだその実像は多くの謎に包まれている。いまさら私ごとき素人が挑んだところで埒は明くまい。ここでは、天日宮を見て、感じたことをもとに、ひとり合点の考察を記すことにする。

空から見た天日宮。
正確な同心円の整形式庭園であることがわかる。
(Google mapより)



扁額の「天日宮」の「日」の字が、庭園のデザインと同じ「◎」であらわされている。
神文は三つ葉柏(みつばかしわ)。神事に奉仕する神官や有力氏子などに多く用いられる。


天日宮社殿の裏にある3つの石。中央の石が「卵」の形をした「玉鉾石」。

 天日宮が、仏教伝来以前の神社建築様式によって築造されたという「唐松山御縁起大略」の記載を見て、当初はまったく意味不明、筋ちがいな説明だと思えていた。しかし、視点を変えて、仏教伝来以前の古神道(原始神道)の信仰形態をシンボル化したものと考えれば、ある一つのかたちが、自然石に覆われた築山の姿に重なりはじめた。失笑を恐れずに言えば、それは神奈備山に見立てられるヤマト最大の聖地・三輪山の山容である。

 天日宮の境内一面に敷き詰められた数十万個ともいわれる自然石。この石の使われ方も尋常でない。何らかの意味が込められていると勘ぐりたくなる。周知のように、三輪山の神は蛇体である。なだらかな円錐形の山容は、とぐろを巻いた蛇を連想させる。累々と連なる石肌は、巨大な蛇のうろこ身を形象化したものではないだろうか。

 「物部文書」と深い関係をもつと思われる書物に『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』がある。学術的には偽書として扱われいるが、部分的には資料的に価値があるとする見解もある。本書に、三輪山の山頂にある奥津(おくつ)磐座が、物部氏の祖・ニギハヤヒの神陵であり、三輪山をまつる大神(おおみわ)神社の主祭神・大物主神は、ニギハヤヒと同体であると記されている。
 さらにいえば、社殿後方に祀られている3つの石。右が男石、左が女石であることは、その形状から容易に見てとれるが、真ん中の「玉鉾石」は、形状そのままの卵を意味するものであろう。日本最古の神社・大神神社にも、蛇の好物である卵が供えられている。

 もう一つ、社殿の扁額に記された「天日宮」の文字も気にかかる。中央の「日」の字が、同心円をあらわす「◎」に形象されている。「日=◎」が太陽神を意味することは“日”を見るよりも明らかだろう。
 太陽神といえば、天照大神(あまてらすおおみかみ)が有名だが、ニギハヤヒの正式な諡号(しごう)「天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)」にも、“天照”の文字が冠してあることから、ニギハヤヒが『日本書紀』編纂以前の太陽神(男神)であったとする説もある。

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 本殿である唐松神社の祭神は、息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功(じんぐう)皇后)と軻遇突命(かぐつちのみこと)で、ここにニギハヤヒは祀られていない。これが、天日宮建立の一番の動機づけではなかったか。

 63代にわたり宮司職を継承してきた物部家としては、唐松神社の縁起とは一線を画した天日宮を建立し、「物部文書」に記された物部家の祖神・ニギハヤヒを祀りたかったのではないだろうか。
 私には、この地が秋田物部氏の聖地であることを示すモニュメントであると思えてきた。

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2013年4月29日 撮影

ニギハヤヒと伝わる像(唐松神社蔵)。
『先代旧事本紀』では、饒速日命の降臨地は、
河内國・河上の哮ケ峰(たけるがみね)にある
「磐船神社」といわれている。


県重要文化財に指定されている唐沢神社の社殿。祭神は神功皇后で、神功皇后の腹帯をご神体として祀っている。


社殿内には、安産祈願と祈願成就に奉納された鈴が、壁一面にぶらさがっている。


【唐松神社・案内板】