岩窟弁天。岩窟の中に寺宝の「岩角」があるという。


岩肌には西国霊場三十三観世音像や菩薩、天王、天神など808体の仏の姿が刻まれている。


天狗腰掛石。
 いわつのさん(岩角山)がんかくじ(岩角寺)と読む。正式名は和田山常光院岩角寺。
 平成19年に本宮町と合併した旧白沢村の北部にあって、標高は337mとさして高い山ではないが、鬱蒼とした樹林の奥には、毘沙門堂や大日堂、那智観音堂、山頂には奥の院阿弥陀堂、愛宕堂、鐘楼などのいかにも古びた建造物が、山ふところに抱かれるようにひっそりとたたずんでいる。

 閑寂な寺域の中でなにより目立っているのは、山中至る所に露出している花崗岩の巨石奇石である。
 石面には、形状に即して「岩窟弁天」「天狗腰掛石」「天の岩戸」「坐禅石」などと名付けられ、石面には、江戸時代初期、修剣道の修行者たちによって線刻された、西国霊場三十三観世音像や菩薩、天王、天神など808体の仏の姿が刻まれている。
 原始の巨石信仰と自然宗教としての修剣道が重なり合った天台宗山門派の霊場である。

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 寺の開基は仁寿元年(851)、平安時代の天台宗の僧、比叡山延暦寺の3代座主である慈覚大師円仁(794〜864)と伝えられている。
 円仁、下野国都賀郡(現在の栃木県岩舟町)に生まれ、9歳で仏門に入り、15歳のときに比叡山延暦寺の最澄の弟子となる。最澄没後の838年、最後の遣唐僧として入唐。848年帰国。朝廷の絶大な信任を得て、天台宗密教の普及、躍進に尽くす。
 円仁の東国巡礼の際、岩角山の麓に来たところ、たくさんの光がこの山に集まり、紫雲がたなびき、虚空に忽然と尊天があらわれた。円仁はここが霊場だと悟り、高さ約3mの毘沙門天を彫刻。貞観2年(860)に毘沙門天を本尊として安置したといわれている。

 昭和30年(1955)に毘沙門天王とその脇侍、善尼師童子と吉祥天女が県の重要文化財に、全山が県名勝・天然記念物に指定されている。
 その毘沙門天王は、12年に1度「寅年」にしか開帳されない秘仏となっており、次回は平成22年5月に一般公開される予定。


岩角寺参道入り口。


【案内板】



天の岩戸(祈りの窟)。


明治初期まで修行僧の瞑想に使われていたという「坐禅石」。俗称「たたみ石」


胎内くぐり。男胎内(右)、女胎内(左)と男女別にくぐる場所が分けられている。
 「西の弘法、東の慈覚」といわれるほど、東北の地には慈覚大師円仁にまつわる伝承が多い。
 慈覚大師の開山または中興といわれる寺院は東北地方に331余あるといわれ、東北を代表する著名な寺院のほとんどは慈覚大師の開山、あるいは中興といっても過言ではない。佐渡の名刹長谷寺、福島県の霊山寺、宮城県松島の瑞巌寺、 芭蕉の句で知られる山形県の立石寺(山寺)、岩手県の中尊寺・毛越寺、勇壮な裸祭り「蘇民祭」の黒石寺。さらに下北半島の霊場恐山などがある。

 こうした東北における慈覚伝承について、宗教学者の山折哲雄氏は、征夷の英雄・坂上田村麻呂(758-811)との関わり挙げている。
 「エゾ─東北の地を中央の権力が掌握していくなかで生みだされた政治と宗教の相互補完的な関係がみられるのではないか、
 すなわち、坂上田村麻呂と慈覚大師は、それぞれ軍事的征服と宗教的鎮撫を象徴する伝説的な人物とされ、やがて東北の歴史に強烈なイメージを与えることになった」(『仏教信仰の原点』講談社学術文庫)

 と指摘している。達見といえる説だと思う。

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 東北各地に散らばる300余の寺院すべてを、慈覚大師が実際に巡歴したとはとても考えられない。田村麻呂伝承においても同様のことがいえる。
 桓武期以降の蝦夷地征服を宗教的に補完する担い手として選ばれたのが、当時の国家的な仏教である天台宗の長・慈覚大師であった。
 慈覚大師の名の下に、天台一派の僧たちが東北各地を行脚し寺院を開基していったのだろう。慈覚伝承の多くは後世に創られたものと思われる。

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2008年4月27日撮影


奥の院。


【案内板】
「お大師さん」といえば弘法大師と思われがちだが、
東北地方では慈覚大師円仁を指すといわれる。

【案内板】。毎年1月3日には、参詣者が梵天を奪いあう「大梵天祭」が勇壮に行われる。