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遠くに眺めていた神奈備山の風景が、いきなり目の前に現れたようなおどろき。
直径約30m、 高さ15mのピラミッド状の岩山。


昭和31年、胆沢扇状地の要・増沢ダムの建設に伴い湖底に沈んだ上衣川字増沢の愛宕神社が合祀されている。

 国道397号沿いの胆沢愛宕小学校(胆沢区若柳)から西に数百m、胆沢川を背にした杉林の中に、摩訶不思議なピラミッド「愛宕社」がある。平板な地形からぽっこりと突き出た高さ15mの岩山は、はたして自然のものか、それとも人によって造られた人工の山なのか?

 由来については、安永年間(1772〜81)に書かれた『安永風土記御用書出』に、当岩山に該当する「愛宕原・愛宕森」の記載が見られることから、この岩山が18世紀以前から存在していたことが確認できる。しかし一番知りたい、自然の産物か、人為的なものかに関する記載は残念ながら見つかっていない。市の教育委員会を通じて土地の所有者にも尋ねてもらうが、岩山については分からないとのこと。

 形状の類似するものに、長崎県対馬のオソロシドコロといわれる「八丁角」、富士山に模して造られたミニチュアの山「富士塚」、僧行基によって築かれた土製の仏塔「土塔」(大阪府堺市) の3つが思い浮かぶ。その中では「富士塚」がもっとも近いように思える。

 そんなこんなを思案中、奥州市観光物産協会「胆沢まるごと案内所」から、数日前に問い合わせていた愛宕社に関する民話が届いた。要約すると以下のとおり。

愛宕盛りの由来
 昔、秋田に三吉という超人的な大力の男がいた。三吉が北上川を渡って山中の村々を訪ねているとき、われこそは日本一の力持ちと広言する男がいることを耳にする。その男を訪ねていき、小山を力いっぱい押し倒す力比べをはじめるが、一向に決着はつかない。いらいらしてきた三吉は「俺はここに西山から石を運んで、一夜にして駿河の富士山に似た山を仕上げて見せる」と豪語する。「できるなら、やって見ろ」ということになり、「明日の夜明けまで」を約束に、三吉の山づくりがはじまった。

 なにしろ奥羽山中から東磐井のど真ん中まで、距離にしても大変だ。石を背負って富士山ができるまで何万回、いや何億回も往復するのだから、その早さといったら話にならない。目の前をシュツ、シュツと光線のごとく走り過ぎる。
 やがて東山の端から胆沢平原を太陽が照らし始める。三吉は「夜が明けた」と叫びながら立ちどまり、背負っていた石塊を投げ出した。この投げ出した石塊が愛宕神社の岩山である。
 さて、秋田三吉が富士山を真似てつくった山が、東磐井の室根山だといわれている。
『いさわの民話と伝説』(昭和45年発行)より要約。

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 日本各地に残るダイダラボッチ(巨人)と秋田県に伝わる妖怪「三吉鬼」伝説が一つになったと思える民話だ。ちなみに室根山は、衣川の東、岩手県と宮城県北部の気仙沼市との境界付近にある標高約895mの独立峰で、8号目に鎮座する室根神社には、熊野神が祀られている。


岩山頂上の祠。地蔵菩薩立像が祀られている。


























*「三吉鬼(さんきちおに)」
秋田県に伝わる妖怪で、酒屋に現われて酒を飲み、
代金を払わずに出て行ってしまう。ここで代金を
請求すると害をなすが、 無視しておけば、戸口に酒の
代金の10倍ほどの薪が積まれているという。
一人ではとても運ぶことができないものも、
三吉鬼に酒を供えて願掛けをしたら、
一夜の間に運び終わっていたという話もある。
秋田市の太平山三吉神社の化身と考えられる

西側の斜面は石が露出し、荒れた様相を呈しているが、東側(写真下)に石の露出は見られない。
奥羽山脈から吹き下ろす風のためだろうか。


東側斜面。
 この民話を読み終え、これで富士塚説に落着したと喜んだが、よくよく考えれば不可解な点も多い。
 富士塚とは、江戸時代後期に多く造られ、関東地方を中心に分布する。大きいもので高さ10mほどの富士をつくり、そこに登ると富士山に登ったのと同じご利益を得られるという。形状は愛宕社と似ているが、富士塚であれば頂上に浅間大神、または木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が祀られているはずだが、それらしい形跡は見られない。
 秋田三吉の伝承も、富士塚とのアナロジーから生まれたものと思われる。

 あと考えられるのが古墳(円墳)だろう。胆沢は県内でもっとも古墳の多い地域である。ここから397号線を東に約10kmいくと、わが国の最北にある岩手県唯一の前方後円墳・角塚(つのづか)古墳がある。しかし、この古墳説も、岩山の径に対する高さを比べると、似て非なるものであることに気づく。角塚古墳(全長44 .5m)の後円部の径約30 mに対して高さは約4.5mと低い。円墳では、北上市の和賀川北岸に分布する江釣子(えづりこ)古墳群があるが、ここの円墳も大型のもので径15m、高さは1.5mほどである。愛宕社の径30 m、高さ15mが、いかに高いかが分かる。
 また、愛宕社の背後を流れる胆沢川との距離が100m余りしか離れていないことも気にかかる。上流にダムが造られるはるか昔は、川幅はもっと広かったと思われる。洪水被害を考えれば、高台でないこの立地に古墳が造られるとは思えない。
 あえて、土石流の危険性が高いこの場所に築くものとすれば、水害をもたらす大蛇(おろち)を封じ込める「蛇塚」のようなものかも知れない。先に挙げた角塚古墳の角(つの)も大蛇の角だといわれている。ここにも大蛇伝承が残されており、見逃せない。

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 はたしてこの岩山には何が封印されているのか。何らかの遺構であることは間違いないだろう。あれやこれや、ない知恵をしぼってみたが、愛宕社の解明にはほど遠い。ピラミッドの謎は超難題の部類に入る。

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2012年4月30日 撮影



東京都台東区・小野照崎神社の「下谷坂本の富士塚」
高さ約5m、直径約16m。
塚は富士の熔岩でおおわれている。

【案内板】