櫻山神社の本殿背後に聳える烏帽子岩。盛岡城築城時、邪魔な石を取り除こうとして現れたのがこの巨大な岩塊だった。


烏帽子岩の側面。横からみると節理による割れ目が明らかで、烏帽子の形がつくられた過程がよくわかる。
 江戸時代前期、盛岡城築城の折に姿をあらわした大きさ二丈(高さ6.6m、周囲約20m)の烏帽子岩(兜岩とも呼ばれる)。この大岩の出現について神社の案内板には、「現在の櫻山神社の場所には、もと八幡社が鎮座しており、その傍らに三角状の岩がありました。この場所の高さが二ノ丸とほぼ同じであったので、利直公は地形を削るよう命じられ三角岩の周囲も削られました。しかし、岩の根は深くやがて烏帽子に似た巨大な岩石が出現しました。……」と記されている。

 掘れども掘れども基底の見えない三角岩。その全貌を目にしたときは、さぞや驚嘆したことだろう。
 このとき工事を指揮監督していたのが、櫻山神社に祀られている南部藩第27代藩主・利直(としなお・1576〜1632)だった。利直公、この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、大石の出現を端兆と慶び「宝大石」として崇め、南部藩盛岡の「お守り岩」として崇拝したという。

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 盛岡城は、北上川と中津川の合流点に位置している。といっても、現在の合流点は、盛岡城跡から南西に約700m離れた北上川公園になるが、築城当時は、現在の「JR盛岡駅」の東にある開運橋あたりから東に流れ、大きく弧を描いて南下し、盛岡城の西を流れていた。南東には中津川が接しており、往時の合流点はまさにこの地だった。
 三方を天然の外堀に囲まれて、要害の地としては最良であったが、多くが沼地であり、たびたびの洪水にも見舞われ工事は難航したという。文禄元年(1592)に整地工事に着工。慶長3年(1598)に豊臣秀吉の許可を得て本格的な築城工事に着手、およそ40年を費やし寛永10年(1633)に完成している。 【当時の地図】
 烏帽子岩の鎮座する櫻山神社は、当初は本丸の東、淡路丸にあったが、盛岡城の廃城に伴い、明治4年(1871)に加賀野妙泉寺に、さらに明治10 年(1877)に南部家菩提所の麓に遷座し、明治32 年(1899)3度目の遷座により現在地に鎮座した。創建は寛延2年(1749)、第8代藩主南部利視(としみ)が、初代南部信直の功績を称え社殿を建立したのがはじまりとされる。

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 「三ツ石神社」(烏帽子岩から直線距離で900m余)でも記したが、盛岡城跡周辺には、盛岡地方裁判所構内の「石割桜」や、昭和43年の中津川改修工事の際に、とてつもなく巨大な岩塊であることが判明した「だんご岩」など、多くの巨石スポットが点在している。これらのスポットが、城跡周辺に集中していることから、この地が花崗岩を包含する丘陵上にあり、築城以前は巨石が至るところに横たわる花崗岩の岩場であったと想像できる。
 築城においても、石材の調達に苦労はなかったようだ。石切場も城内に存在し、本丸、二の丸、三の丸の順に切り下げ、そのつど掘り出された花崗岩を使って、規模と技法においては奥羽随一と評される美しい石垣を築いている。

 盛岡城築城からはじまる400年間、時代の変遷とともにあたりの風景は一変したことだろう。往時と変わらぬ姿は、掘り出された烏帽子岩のみかも知れない。400年では、磐座としては新参者といえるが、石神の出現に古い新しいは関係ない。依り代的な磐座、または磐境のような祭祀施設に関わるものはその歴史も重要だが、特異な形状と巨大さをそなえた石神の出現は、いつの時代であっても人々を驚かせ、信仰の対象として大切にされている。
 自然を畏れ、敬うといった人間心理の深層は、100年、1000年単位では変わらない、と思っている。

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2013年4月28日 撮影



烏帽子岩の基底部。節理による割れ目が目立つ。


盛岡城跡側から見た烏帽子岩。


櫻山神社拝殿。明治32年(1899)の3度目の遷座によりこの地に鎮座し、今日にみられる社殿が建立された。
現在は初代信直の他、藩祖・光行、二代・利直、十一代・利敬の4人の藩主が祀られている。


【案内板】