県道10号線に沿った一関市立大原中学校(旧商業高校)グランドの西隣にある二段重ねの巨石「続石」。
続石の周囲に数個の巨石が散在している。
二段に重なった上石の高さ2.4m、周り14.5m。下石の高さ2.7m、周り28.5m。総高は5.1m。
「
続石
」といえば、遠野市綾織町のドルメン状の巨石が有名だが、古くはこちら大原の続石の方が広く知られていたのではないだろうか。
大原地区は、一関市と陸前高田市を結ぶ要衝で、内陸の産物と海の産物との交易市場としてた栄えた宿場町だった。伝えるところによると、平泉藤原氏三代の最盛期を築いた秀衡は、平泉を京都になぞらえて、東の北上山地を東山と呼び、この地を大原と名づけたという。
江戸後期の旅行家・菅江真澄も、今から228年前の天明6年(1786)3月下旬から6月末までのおよそ3カ月間、大原とその周辺の名所を訪ね歩いている。
『菅江真澄遊覧記』の「はしわのわか葉」(天明6年4月〜6月の日記)によれば、大原逗留時には芳賀慶明(はがよしあきら=長左衛門ともいう)宅に世話になっている。慶明は肝入役を勤める豪農の当主で、歌や俳諧をよくし、当時33歳の真澄より1歳ほど年長であったらしい。中津文彦の『天明の密偵(小説・菅江真澄)』では、白山村(奥州市)の文人・鈴木常雄に紹介されたとある。
春たけなわの季節に、曹洞宗の古刹正法寺や蘇民祭で知られる黒石寺。中尊寺、義経堂から達谷の窟へ。さらに、式内社の配志和(はしわ)神社などを詣でている。また、桜狩りでは、当時「検断(けんだん)桜」と呼ばれていた衣川村の「北館の桜」を訪ねている。検断の名は、秀衡の時代に検断(現在の警察署のようなもの)の役を務める役所が置かれていたことによる。現在は桜のすぐ横を東北自動車道が走り、周囲の風景は一変したものと思えるが、樹齢700年といわれるエドヒガンザクラは当時から名木として知られていたようだ。
大原の続石には、6月29日に詣でている。
「二十九日 六月もきょうをかぎりに終わるという。続石神に詣でた。阿倍比羅夫、あるいは虫麿朝臣などが寄進したものもあって、むかしはなかなか栄えたところである。黒麿の歌として語り伝えられている歌がある。「よきことを万代かけて続き石の神の恵も大原の里」 そういうけれども、この歌はその時代の風とも思われない。ここは貞観のむかし、山城国大原野の大明神をまつったところだという。また寺を続石山大原寺といって、開祖は円珍大師で、藤原清衡が豊田の館から平泉へうつってきて、わが館の鬼門を守り給えと誓願したのは、この神社である。本地仏として祀った薬師如来は円仁大師の作である。……」
(『菅江真澄遊覧記』「はしわのわか葉」東洋文庫2より)。
最初に出てくる阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、飛鳥時代の斉明天皇4年(658)に水軍180隻を率いて蝦夷、粛慎(樺太)を征討した武人である。さらに、伝承によれば平安期の武将・源頼義、義家も詣でて、宝剣を奉納したといわれている。伝承の信憑性はともかく、石神としての信仰はかなり古くからあったものと思われる。
県道沿いに立てられた標柱には、「続石神社・続石山大原寺跡」と記されている。神社とお寺が共存する神仏習合は奈良時代からはじまる。続石神社の由緒は明らかでないが、続石山大原寺は、貞観年間(859〜877年)、天台宗寺門派の祖・円珍(814〜891年)によって開基され、藤原三代の時代は、鬼門鎮守として祭田五丁を寄附し、社地は永代不入の地と定められていたが、泰衡の時代に宮殿を焼失し、のち再建されるが天正年間(1573〜93年)に再度焼失したという。
吉田東伍の『大日本地名辞書』に続石の大きさが記されている。
「続石明神社、後有大石二個重峙、上石高八尺囲四丈八尺、下石高九尺囲九丈四尺、総高一丈七尺、是以有続石之号」
二段重ねの上石の高さ2.4m、周囲14.5m。下石の高さ2.7m、周囲28.5m。総高は5.1mとある。遠野の続石より一回り大きく、戦車のがたいのような異様な風袋である。
現在は、石のかたわらに小さな祠があるのみで、ジュース自販機の横に立てられた標柱がなければ、民家の庭先というたたずまいで、車だと見落としてしまいそうな寂れたところになっている。
名だたる歴史上の人物が詣で、「むかしはなかなか栄えたところ」という面影はすっかり失われているが、続石の前で、石を抱きかかえるように一本の桜が咲いている。いつの日か桜の名所として復活するときがあるのかもと、わずかに期待する。
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2014年5月2日 撮影
石のかたわらにある小さな祠。
祠の扁額には、消え入りそうな文字で
「大原神社」と記されている。
道路沿いの「菅江真澄遊覧の地」と記された標柱。
治れる 御代いつまでも つづき石 なほ うごきなく
神や守らむ 真澄
手前の道が県道10号線。右の木が桜。