磐神社拝殿の裏に鎮座するご神体(男石)(西側より)。
10.2m×8.8m×4.2mの自然石。安倍氏が尊崇したアラハバキ神のご神体。
苔むした石はかなり風化がすすんでおり亀裂も目立つ。
ここに来る前に、安倍舘(あべたて)跡に登ってみた。標高約90mの小高い丘の先端部にあって、跡地唯一の建造物である展望台に上がると、人家が点在するのどかな田園風景の先に、役場などの公共施設が集まる古戸地区が遠望できる。高台を囲うように、北に北股川、南に南股川が流れ、両河川が舘跡の東で合流し、ここから衣川(ころもがわ)に名を変える。東南北の三方が川で守られ、西には山々が続いている。まさに天然の要害といえる。
この舘跡は、俘囚長だった安倍忠頼の代から80余年間にわたり、奥州安倍一族の城郭だったと伝えられている。
安倍氏のルーツは明らかでない。純然たる蝦夷の出なのか、中央から鎮守府に赴任し、この地に土着した豪族なのか、出自については諸説あるが真偽は不明である。
「前九年の役(1051〜62年)」の顛末を記した『陸奥話記(むつわき)』の冒頭に、陸奥国奥六郡(衣川以北で盛岡市以南に相当する)の首領に安倍頼良(よりよし・後に頼時と改名)という者がおり、祖父忠頼の頃から「蝦夷の長」として権勢を振るい、武力をもって諸村落を服従させ、税も納めず、国司をも恐れぬほどであった。と記されている。
こうした安倍氏の専横に対し、陸奥守の藤原登任(なりとう)は、数千の兵を引き連れ、永承6年(1051)頼良を攻めたが、鬼切部(おにきりべ・宮城県鳴子町鬼首)の戦いで大敗する。この戦いが「前九年の合戦」のはじまりとなった。
天喜5年(1057)頼時が流れ矢にあたり亡くなるが、貞任(さだとう)が跡を継ぎ、朝廷軍との戦いは継続する。朝廷では源頼義を陸奥守に任じ、出羽の清原氏に援軍を要請する。貞任は厨川(くりやがわ)の柵(盛岡市)で最後の抵抗を試みるが、ついに陥落。康平5年(1062)、ここに安倍氏は滅亡する。
ただし、安倍頼時の孫にあたり、本来は処刑される運命にあった清衡(きよひら・当時7歳)は、母が敵将である清原武則の長男武貞の妻に迎えられることで危うく難をのがれた。
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前説が長くなったが、磐(いわ)神社は、安倍舘跡の北側、直線距離で約500mの水田に囲まれた杉林の中にある。平安前期から知られた神社で、延喜式内奥州一百社の内で胆沢七社の筆頭社であり、『文徳実録』に、仁寿2年(852)8月7日条に「石神」が他の諸社とともに、従五位下を授けられたとの記載が残されている。
祭神は日本武尊と稲葉姫命、伝承では伊邪那岐命。通称は「おいしさま」と呼ばれている。社殿の裏にある高さ4.2m、縦10.2m、横8.8mの自然石がご神体で、安倍氏はこの大石を荒覇吐(アラハバキ)神として尊崇していたという。
アラハバキ神は、東北地方一帯に広く残る地主神で、蝦夷の神であったと見られるが、その実態については花巻市東和の
「丹内山神社」
でも記したように、よく分かっていない。
安倍氏滅亡後、奥州の覇者となった藤原清衡は、中尊寺や金銀螺鈿をちりばめた金色堂を建立し、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。しかし、仏教に深く傾倒したと思われる一方で、アラハバキ神を祀る丹内山神社をことのほか大事にされ、毎年の例祭には清衡自ら奉弊して、祭りを司っていたという。
このあたりに、中央政権にまつろわぬ「蝦夷の神」の根深さがみえる。
磐神社周辺マップ
田園の中にある鎮守の森。杉林に囲まれた磐神社。
松山寺境内に鎮座する女石。中央に亀裂があることから女石に見立てられたのだろう。
磐神社から西北に約1km。松山寺(しょうざんじ)境内に、磐神社の末社・女石神社がある。ご神体は、女石と呼ばれる周囲5m、高さ2mの割石で、今年(2012)3月に再建された真新しい社殿の背後に鎮座している。磐神社の配偶神とされ、両神社は陰陽一対の神として祀られている。
民俗学者の谷川健一氏は、アラハバキ神は外来の邪霊を撃退するために置かれた門神であり、もともとは塞(さえ)の神であったという。
塞の神は村はずれに祀られ、疫病や戦など、招かざる客の侵入を「サエギル」役目をもつが、それ以外にも、陽石や陰陽石に見立てられ、単独神から夫婦神へと変質し、稲作豊饒の祈願する農神としての役割を担う例もある。
原初においては、それぞれ単独の「石神」として祀られていたものが、後にアラハバキ神として尊崇され、やがて夫婦神が組み入れられたものと思う。石の信仰は時代とともに姿を変える。その一例といえる。
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2012年4月30日 撮影
女石神社の真新しい社殿。(松山寺境内)
松山寺は嘉祥年間(848〜851)の開山と伝えられ、
明応元年(1492)鉄牛和尚に中興された曹洞宗の古刹。
【磐神社案内板】