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天翔ける騎士 序章
Aパート
"the Prelude" A-Part
…人類にとって、宇宙が単なる憧憬の対象でなくなって、一体ど
れほどの時が過ぎただろうか。
人は、母なる大地の頭上に無数の都市を浮かべ、そこを新たな生
活圏として拡張を続けるに到っていた。すなわち、「SS(スペー
ス・ステイツ)」と呼ばれる12のスペースコロニー群が月軌道の
周辺に設置され、人類の新たな生活圏として機能し始めていた。一
方、月・火星・金星には、特殊硬質テクタイト製のドームで仕切ら
れた居住区、一般にはコロニードームと呼ばれているものと、それ
に付随する地下都市が建設されていた。人類の生活圏はかつてない
ほどの広がりを見せていたのである。
主に西暦2000年代末期から2100年代前半にかけて行われ
た、いわゆる「宇宙移民」は、増えすぎた人口への対応にとどまら
なかった。それは、人類の可能性を再認識する、またとない絶好の
機会であったと言えよう。長期の混乱に疲れ果てた人類は、その混
乱によって破壊された秩序を再建することに生きがいを感じたこと
は、確かである。しかしそれは同時に、来るべき次の混乱への無意
味な準備活動であるのかも知れない、というひどく無気力で厭世的
な感覚を伴ったものでもあった。当時の人類は、混乱−破壊−再建
−再びの混乱というサーキュレイションに諦めにも似た絶望と倦怠
を抱いていたのである。
その、生きることに倦み始めたかに見えた人類にとって、宇宙移
民とは最大の、そしておそらく人類という種として最後の、再生と
飛躍の機会だったに違いない。
その宇宙移民を推進したのが、人類統一政体である「地球連邦政
府」であった。この人類史上初の統一政体は、西暦2023年、も
はやごく限られた人々のための利益追求機関と成り下がった主権国
家という巨大な老廃物を種とし、西暦1900年代末期から続いた
全地球規模の動乱、そして天災を苗床として誕生した。それは、か
つて絶対的な存在として人々が恐れ、それ故にその下で暮らさざる
を得なかった「国家」という狭い認識を超越した人類の新たなる、
そして最も輝かしい統一の象徴であった。同時に永劫への平和の象
徴でもあったと言えよう。
−人類は国家の枠を乗り越え統一を果たした。もはや戦争の存在す
る意義はない。戦争を乗り越えられないわけがない−
少なくとも連邦設立当時の人々はそう考えたはずだ。実際、連邦
設立に当たって起草された趣意書も、同様の文面であった。連邦設
立当初、人類の統一という、かつてない大事業を果たした当時の人
人のテンションは、異常なまでの高まりを見せたのは事実である。
ある毒舌家をして
「天井知らずの楽天家ども」
と言わしめた程である。
しかし、そうした当時の人々を責める権利を、何人たりとも持ち
合わせてはいない。その時こそ、人類の再生のきかっけが創られた
からである。物質的にはともかく、精神的には人類は明らかに健全
化の方向へ向かって歩み始めた。さしあたり、絶望と倦怠よりは楽
天の方が遥かに精神衛生上は好ましい。実際、この後の人類は動乱
や天災で失われた技術を再建し「第1の躍進」と呼ばれる、本格的
な宇宙開発に乗り出している。その根底には「天井知らず」と評さ
れた、健全な楽天思想があったのは言うまでもない。
現実問題として、統一に前後する「災厄の年間」によって激減し
た人口がかつての水準を取り戻しつつあり、20世紀末期に発生し
た生活環境問題が再び顕在化したことも、宇宙開発の主な要因とし
て挙げられる。だが、宇宙開発が結局のところ児戯に終わった20
世紀末と最も異なったのは、そして成功へ導いたのは、人々の精神
性のなせる業だったのかも知れない。
もはや人類が宇宙へ飛躍するのは必然としか言えないのだ。
宇宙移民は統一政体たる地球連邦政府でなければ、他の何も為し
得なかった事業であったことについて、後世に到っても異論の余地
はない。しかし、組織というものは時間の経過とともに変質してい
く。これは法則と呼ぶには恥ずかしいほどの歴史の必然である。人
類の持って生まれた業と呼ぶには、あまりに悲しすぎるものではあ
っても、である。
設立当時の地球連邦政府は、人類史上、類を見ない高潔さを誇っ
た。全ての機関が護民的な性格を持ち、民衆は「公僕」や「選良」
の本当の意味を実感したのだった。これは、連邦以前の国益優先の
国家主義を、結果として脱却したことによるものである。国家とい
う枠が取り払われた以上、国益は存在し得ない。あるのは他ならぬ
その構成員全員の利益であり、それは、民衆優先の政治を意味して
いた。これは余談だが、連邦設立直後のごく一時期、奇跡的に生き
残っていた共産主義者は、共産主義革命の成功を祝していたようで
ある。しかし20世紀末の時点で共産主義は崩壊しており、その喜
びは全くのナンセンスであったと言える。実体は市場主義であり、
国家間ではなく、完全な企業間での競争という図式が導入された。
無論、設立後しばらくは、旧国家のしがらみは残ってはいたが。も
っとも、設立後に急進した福祉政策や所得の再分配政策を見ると、
共産主義的な要素がないこともない。だが、思想的下地が完全に瓦
解してしまっては、既にそのようなイデオロギー的分類が意味を為
さないのは、誰の目にも自明であった。
設立当時の連邦を見てみると、連邦直属の捜査官も後の秘密警察
まがいのものとは異なり、民衆の権利と利益を擁護するためだけに
存在していた。例えば、製薬業者と結託して入院患者に新薬品の生
体実験を行っていた悪名高き総合病院「グリーン・クロス・ホスピ
タル」や自社の食品に習慣作用のある薬物を混入して販売した「マ
イティー・フーズ」社の摘発は、一般には知られていないが、連邦
直属捜査官の手によるものであったという。
西暦2054年の「宇宙移民計画」の発表に始まる宇宙時代に入
ってからも、また、2098年以降SSや惑星居住区に移民が開始
されてからも、後に言われるところの「連邦の黄金時代」は続いた。
全てのSS及び惑星・衛星居住区には、ほぼ完全な自治権が与えら
れ、民衆の手による原則に忠実な民主政治によって、その運営が為
されていた。また、地球の各地と同等の立場で代議員が選出され、
連邦政府議会に議席を占めている。発言権も対等で、馴れ合いでは
なく、かなり真剣で活発な議論が闘わされていた。各SS・居住区
の首長は、連邦政府最高会議のメンバーとして政治の中枢に参画す
ることも、当時は出来たのである。
また 神経質なまでに権力が分散され、汚職には厳罰をもって遇さ
れた。確かに非効率的な面も多々あったが、あるいはそれは権力が
集中し、その結果自壊する羽目になってしまった、かつての主権国
家の前例に対しての、当時の真摯な政治家たちの恐れと自戒だった
のかも知れない。少なくとも後世の人々には、そういった認識を持
つ者が多いのも事実である。
だが、時の流れは無情にもその敬虔さを奪っていった。いつの頃
からだろうか。理想が嘲笑され、物知り顔の現実主義者たちが我が
物顔に跋扈するようになった。制限されていたはず権力は巧妙に集
中され始め、ごく限られたの権力者、それも選挙によらない者たち
の指先一つで政治が左右されるに至った。
連邦の変質は、必然的にSSや各居住区にも影響を及ぼした。脅
迫まがいの「要請」や連邦直属の監査官の派遣など自治政治への度
重なる干渉をはじめ、地球上における宇宙出身者への差別・閉め出
し、連邦管理下における貿易の制限、地球に比して異常に高額に設
定された税金やSS・居住区のみ徴収の税金の創設等、「黄金時代」
の連邦からは想像のつかない蛮行の数々であった。だが、それは決
して理由なくして行われたことではない。
西暦2100年代前半、宇宙移民が順調に行われ、コロニーでの
生活が安定したものになるにつれて、しだいに宇宙市民は力を持つ
ようになってきた。地球では生産できない特殊な金属の精製技術の
確立や、太陽電池によって得られた膨大なエネルギーをマイクロウ
ェーブとして地球へ供給するシステムの完成など、明らかに宇宙居
住者たちの力は地球上で安穏と生活する人々を凌駕するに到った。
連邦政府は、そうした宇宙市民に危機感を抱いたのである。
−いつか、彼らの手によって自分たちは権力の座から引きずり下ろ
されるに違いない−
醜く肥大した権力欲は過大な被害妄想へ結びつき、保身の欲望は
過剰な弾圧政策へと結びついた。その不当な政策は、当然ながら宇
宙市民の怒りを買い、彼らは連邦への不信感を強めていった。だが、
そうなればそうなる程、連邦の態度は一層高圧的になっていくのだ
った。
西暦2140年、連邦はついに宇宙軍を創設するに到り、セレー
ネも2148年より密かに軍備を整え始めた。もはや、この悪循環
の螺旋は誰にも止められないものとなってしまったのである。そし
て、その悪循環の螺旋で構成された塔の、一気に頂上まで達するよ
うな決定的な事態が発生した。時に西暦2151年、後に「スタフ
ォードの黒い7月」と呼ばれる事件である。
月の裏側、スタフォード市において行われた反地球連邦政府団体
のデモに対して、連邦側治安部隊が無警告に発砲を行ったことが、
そもそもの発端であった。デモを企画した団体がかなり過激な団体
であったため、正当防衛的な要素もあったのかも知れないが、真に
宇宙市民を激怒させたのは、その後の処置についてであった。巻き
添えを含め、民間人に数百人からの死者が出たのにも関わらず、連
邦政府はこの事件について一切の発表を行わなかったのである。逆
に事件についての報道を行ったマスコミに圧力がかかり、目撃者や
被害者は治安部隊の拘束を受けて、事件について口外しないように
との脅迫を受けたりと、事件の存在そのものをもみ消したと言われ
ても弁解できない処置であった。
無論連邦にも言い分はある。ここで事件を公にして、宇宙市民の
感情を逆なでしたくない、というものであった。しかし、当然なが
らそうした処置こそが、宇宙市民の感情を逆なでしたのである。反
地球連邦政府運動の急先鋒だった月面自治都市連合セレーネは、こ
こに至ってついに、地球連邦からの独立を宣言した。事件の1ヶ月
後、西暦2151年8月のことである。
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