次へ    前へ    目次へ

天翔ける騎士 終章「その彼方にある何か。」




"Epilogue"


「…死んだわけじゃ、ないよね−」
 白い天井を見上げた。
 体を起こそうとして、右手に激痛が走る。辛うじて目の前まで動
かしてみると、手全体が固められ、包帯に巻かれていた。
「夢じゃ、なかった…」
 そこで気が付く。
「セア!」
 視線を巡らすと、傍らのベットに見慣れた顔の、でも見慣れない
姿を見つけた。
「…セアの寝顔って、初めて見たのかな」
 つぅっと、冷たい感触が、目尻を伝った。
「セア、わたし…」

 アポロ市街に拠って抵抗を続けていた連邦軍は、その日のうちに
全て投降した。といっても、「アポロの悪夢」渦中の市民の反抗や
ラグランジュ軍との戦闘やらで、その大半は既に失われていたが。
そして、彼らを指揮していたハーコート・ヴァノン中将の姿も、投
降者の中には無かった。ヴァノンは、連邦軍司令部に突入したラグ
ランジュ軍によって、自室にて発見された。
 机に突っ伏して眠っているように見えた彼は、死んでいた。死因
は、服毒による呼吸不全であった。ヴァノンの死を知らされたとき、
ラグランジュ軍に拘束されていたリト・アドリアン大将は、黙って
首を振ったという。
 ヴァノンの死と、連邦軍の投降によって、アポロ市はラグランジ
ュ同盟の手に落ちた。多くの市民と、それ以上に多くの市民の死と
共に。
 時に2191年11月23日。
 開戦から2ヶ月余。
 ラグランジュ同盟は、月面の奪還を宣言した。

「ふたりとも、2・3ヶ月で完治するって」
 心配そうな表情をしていたカーツとキョーコが、リニスの言葉に
表情を和らげた。
「よかったー。一時はどうなるかと思いましたー」
 トレイを胸に抱えて、キョーコが大きく息をつく。
「キョーコも大げさねぇ…」
 カーツが頬杖を突きながら呆れた声を出した。
「むぅ…そう言うカーツェットさんだって、お医者さん脅してたじ
ゃないですかー」
 ぷぅと可愛らしく頬を膨らませる。
「メス突き付けて『ちゃんと治療しないと、あんたの手にも穴空け
るわよ』って…」
「な、なんで知ってるのよ!」
「えへへ〜。ジュノーさんに聞いたんですよぉ」
 ちょっと鼻の穴が広がったニコニコ顔になる。
「それは、それだけふたりが心配で…もう、先輩も、何とか言って
下さいよ」
 リニスはカーツの懇願に、困ったような笑顔を浮かべる。
 −言えない。
 −治療の終わったお医者さまをエアロックに閉じこめて、「この
ままふたりが目を覚まさなかったら反対側の扉開けちゃいますけど、
いいかしら?」って脅したなんて、言えない。
 明後日の方向を向いて拳を握るリニスに、顔を見合わせるふたり。
 ふと、心づいたカーツが尋ねる。
「でも、傷痕は大丈夫なんですか? セアはともかく、シャルは…」
 カーツの声に、リニスは我に返って少しだけ顔をしかめた。
「そうね。聞いた話では、完全には消えないかもって。でも、シャ
ルレインちゃんなら大丈夫よ。気にせずに貰ってくれそうな人もい
るし」
 本気なのか冗談なのか分からない表情で笑うリニス。
「そうですね」
「いいなぁ。愛の傷痕かぁ…」
「…何考えてるのよ、あんた」
「聖痕、か…」
 騒ぐカーツとキョーコを後目に、リニスは自分の掌を見つめた。
機械いじりもしているが、その割には綺麗な肌だと、自分でも思う。
当然、目立つ傷痕も無い。
「悲しいわね。…でも、ちょっとだけ羨ましいかも」
 傷痕ではなく、それによって紡がれた絆が。

「お、セア、もういいのか?」
 グーランの声に、搬入された「フラスK」のチェックをしていた
キーツとジュノーが振り返った。
「いいかどうか分からないんですけど、寝ててもすることないし…」
 右手で頭をかいた。左手はギプスに固められて吊っている。
「セラムちゃんは?」
 ジュノーが手を止めてセアに尋ねた。
「今、着替え中です。…あの、キーツさんかグーランさんにお願い
があるんですけど」
「ん?」
 つなぎ姿のキーツも、セアの前に立った。
「シャルと僕を…あの場所に、連れて行ってもらえませんか?」

「まさに、傷痕だな…」
 セアとシャルを乗せて、テスト代わりに「フラスK」で「あの場
所」にやってきたキーツは、今は広場として整備されたあの場所に
佇んでいるふたりを、遠くに眺めていた。ビルの谷間に、クレータ
ーのようにぽっかりと空いた広場。
 「アポロの悪夢」から数週間。
 急速に市街は復興が進んでいるが、人々の心の傷は癒えていない。
 おそらくは、あのふたりも…。

「ね、セア…」
 シャルは、何か見えないものに怯えるように、セアに寄り添った。
「わたし、これで良いんだよね…?」
 右手を軽くシャルの肩に置きながら、セアも何か見えないものを
見つめる。
「たぶん…いつでも、どんなことでも後悔はするんだと思う」
 シャルの右手に視線を落とした。怪我そのものはセアよりも軽か
ったため吊ってはいないが、利き手ということで、それなりに厳重
に固められてはいた。
「でも、自分のやるべきこと、自分のできることをやった方が、や
らなかったことへの後悔だけは、しなくて済むんじゃないかな」
「そうよね…」
 宵空色の髪の上で結んだリボンが、風に揺れる。
 その風が運んできたように、ふたりの前に少女が現れた。
 細い金髪。紫水晶の瞳。
 セアよりも僅かに背は高い。
 少女は、妖精のような、透き通った笑みをこぼした。
「やっと会えたね、お兄ちゃん、お姉ちゃん」

 西暦2192年1月1日。
 月面アポロ市において、ラグランジュ同盟の新盟主就任式典が行
われた。
 新たな盟主の名は、シャルレイン・ケムラー。若干15歳の少女
であった。
 地球連邦政府最高会議議長、そしてテラ総帥であるローレンツ・
ケムラーの孫である彼女は、前年の9月頃から行方が分からないと
されてきた。それが突然姿を現し、ラグランジュ同盟の盟主に就任
した。連邦側はもちろんのこと、一般の人々も戸惑った。
 しかし彼女は悠然と、演壇へ進み出た。
「わたし、シャルレイン・ケムラーは、ローレンツ・ケムラーの孫
です」
 彼女の演説は、その言葉から始まった。
「しかしそれは、祖父とわたしが、同じ考えに立っていることと同
義ではありません」
 稟とした声が、響き渡る。
 彼女の着ている服は、明らかにラグランジュ軍の軍服とは違って
いた。だからと言って私服というわけでもない。一言で言えば、彼
女が特別な地位に就いていることを象徴する服、ということになる。
 淡い紫の上下、下は丈が膝下すこしまでで、代わりに白い靴下が
長い。首元は薄い水色のスカーフが隠していて、白い上着を着てい
る。その袖口と襟元には、目立たない程度に金糸の縫い取りがして
あった。肩を飾るモールも控えめの金色である。
 そして、手には白い手袋をはめていた。
 一見すると中世風の、アナクロじみた服装だが不思議と彼女には
似合っていた。
 上着よりも白い肌だが、わずかに上気しているようにも見える。
春の太陽のように穏やかな瞳が、緊張を交えて輝いていた。ただで
さえ淡い雰囲気を持つ少女を、さらに淡い色調でまとめた感じであ
る。唯一はっきりした色を持っているのは、肩の半ばまである宵の
空の色の髪と、そこに飾られた鮮やかな黄色のリボンだけであった。
「テラは、本来宇宙を護り、みなさまを守る存在であった地球連邦
政府を我が物とし、あまつさえ、守るべき対象であった自らの市民
さえその手に掛けてしまいました。ここに至って、わたしたちが座
視してその凶行を見逃す道理は、どこにも存在しません」
 彼女は、ちらと視線を横に動かした。
 その視線の先には、影のように少年が従っていた。影であること
を自称するかのように、少年は黒ずくめで、髪も墨を流したような
色である。デザイン自体はラグランジュ軍の軍服と変わりないよう
で、色だけが異なっていた。左手だけに黒いグローブをはめている
のが、少し奇異な感じではある。墨色の髪の少年は、前方の少女を
見つめつつも、周囲に気を配ることを忘れていないようだ。
「わたしたちラグランジュ同盟は、テラに対して結集することを確
約した宇宙市民の意志の総体です。自らの利益と保身にしがみつき、
宇宙市民をむさぼり続けるテラに対して、ラグランジュ同盟は全力
でこれを殲滅すべく、ここに兵を発します」
 瞬間、凄まじい喚声が少女を包んだ。
 あまりの圧力に思わず歩を引いた少女の右手を、黒衣の少年の左
手が包んだ。手袋越しに、微かな紅い温もりが灯る。暖かく、穏や
かな流れが、彼女に力を与えた。手を握り返してそして離し、彼女
は再び演壇に立ち、顔を聴衆へ向けた。
「ラグランジュ同盟盟主たるわたし、シャルレイン・ケムラーは、
全軍を以ってテラと雌雄を決し、宇宙市民のための平和を勝ち取る
ことを、本日この場で、皆さんに誓約いたします」

『総員、第一種戦闘配置。繰り返す、総員、第一種…』
 鳴り響く警報の中、温和な声が彼女を呼び止めた。
「…何も、貴女がご自分で戦わなくとも」
 彼女は、すっかり伸びた髪をくくっていた黄色のリボンを解きな
がら、微笑んだ。
「これも、わたしの戦いですから」
 ウォリンガーは、軽く頭を振る。
「まったく、貴女にも困ったものです…」
 舞い上がった髪の毛を煩そうにかき上げながら、床を蹴る。
「唯一の我が儘なんですから、許してくださいね」
 角を曲がったところで、黒いパイロットスーツの少年と鉢合わせ
になる。
「きゃっ…ってセア」
「ああ、シャル。ほら、急がないと」
 手にした白いパイロットスーツを差し出す。
「…セア、あなた、人のロッカー開けたの?」
 ぶんぶんと手を振る。
「違うよ、リニスさんが」
「そう、よね…ありがと」
 笑って更衣室へと消えていく。
 追いついたウォリンガーが、セアの前に立った。
「ウィローム殿、あなたもお気を付けて」
 本当に柔らかな笑みに、セアの表情も和む。
「ありがとうございます。ウォリンガーさんも大変ですね」
 はは、と声を出して笑う。
「まさか、この年になってお転婆娘のお守りを仰せつかるとは、思
いませんでしたよ」
「あら、誰がお転婆なのでしょう?」
 更衣室のドアが開いて、笑顔のシャルが姿を見せる。
「ウォリンガーさん、帰ったらちょっとお話を」
 たおやかに微笑む。
 顔を引きつらせて冷や汗を流すウォリンガーを見て、いつもの春
の微風のような笑みをこぼした。
「なんて、冗談ですよ。自分でもたまにお転婆かなって思いますか
ら」
「…たまになんだ」
「うるさいわね」
 セアの頭をこつんと叩いてから、軽く安堵の息を漏らしたウォリ
ンガーに一礼して、シャルは床を蹴った。
「それじゃ、行ってきますね。…行こ、セア」
 黄色いリボンを巻いた右手が、セアの左手を掴む。ともにまだ包
帯が取れていないのでパイロットスーツ越しにもゴワゴワした感触
はあるが、それでも温もりは伝わる。
「うん」
「おふたりとも、お早いお帰りを」
 手を振るウォリンガーを後に、格納庫へと飛び込んだ。

「敵、レッドゾーン到達まであと50」
「ウィローム機、ケムラー機、発進準備完了」
 アークライトがコンソールに向かって怒鳴る。
「こら、遅いぞ」
『済みません!』『ごめんなさい』
「敵は巡視艦隊だが、ガンシップタイプの『ヴラド』を確認した。
グーラン機が被弾しているから、サポートを頼む」
 タリスが後ろから言い添える。
「『グラディウス』も強化型のようだ。気を付けて行けよ」
 アークライトの声に、元気な返事が返ってくる。
『『了解!』』
「進路クリアー。発進可能です」
「よし、『ベズル』『エヌマ』発進!」
『セア、「ベズルフェグニル」、出ます!』
『シャルレイン・ケムラー、「エヌマ・エリシュ」行きます!』


 時に西暦2192年。
 後世「ラグランジュ戦争」と呼ばれる戦いは、この年も続く。


次へ    前へ    目次へ