七日子神社から南に約250m。丸石では最大といわれる七日市場の丸石道祖神。周囲は363cmあった。


上記七日市場の丸石から南に約600mの地点にある丸石道祖神。周囲は288cm。
どちらも蚕影山(こかげさん)の石碑と並べられている。
 中沢厚の『石にやどるもの―甲斐の石神と石仏』によると、山梨県内には丸石を祀る道祖神が約700ヶ所以上もあるという。一カ所に平均5個の丸石があるとすれば、その数は3,500個。さらに道祖神以外の屋敷神などに祀られた丸石を加えると、その実数は知れず、調べようもない有様であると記されている。

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 山梨県内に、なぜこれほど多くの丸石があるのだろう? その疑問を立ち話をした野良仕事中のおばあちゃんに尋ねてみた。
 「河原から持ってきたのだろう…」。
 七日市場の直径1mを越える巨石を、近くを流れる笛吹川の河原からゴロゴロと転がしてもってきたのだろうか。

 中沢厚は、実際に笛吹川の河原を歩き、丸石を捜し求めた経験から、丸石が海波や河の流れによる摩滅からできるとする定説を疑問視している。
 この摩滅説に変わり重視していたのが、山梨岡神社(石森山)でも記した、火山性の結晶体説である。
 1930年代初頭、中央アメリカのコスタリカ共和国の密林で、直径1〜2mの大石球が100個以上発見された。人工物説、宇宙人説などさまざまな成因説が出されたなかで、アメリカのスターリング博士は、この大石球は火山活動の産物であり、多量のガスをふくむベース状の火山灰層の深部にできた火山性の結晶体だとする説を提出した。
 このスターリング説に対し、『石にやどるもの』には、「山梨県は富士火山帯にあり、新旧の火山にとりかこまれているのですから、丸石が、火山灰層中に出来る結晶体だという説はまことに魅力的であります。鬼の首でもとったような気持ちでこの報告を読んだ…」と記されている。

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首の欠けた野仏の首代わりに乗せられている丸石。七日市場








塩山市上井尻能麦の丸石

塩山市上井尻能麦の丸石群。人形も一緒に供えられていた。


三富村徳和集落
 哲学者プラトンは「球形はもっとも完全な形である」と考え、男と女は元来ひとつの球体だったとする「人間球体説」なるものを唱えている。
 プラトンの生きた約2400年前は、日本の時代区分でいえば、縄文から弥生へ移行しようという時代にあたる。縄文人たちもプラトン同様、球体のもつ、それ自身で完結し、もうこれ以上手を加える必要のまったくない、丸石の美しさに畏敬の念をもっていたのではないだろうか。

 中沢厚も八ヶ岳山麓の縄文遺跡から多くの丸石が出土していること、丸石と石棒神との祭祀の共存が見られることから、丸石神信仰の起源を縄文文化期と想定し、次のように推測している。

 「彼らの生んだ丸石信仰も遠く及んで大和地方はいうまでもなく西国や東北地方も影響をこうむるようになった。それから長い年代が過ぎ、ついで弥生文化時代とか古墳時代といわれる主として西方から権力集中の変動時代がはじまる。そして結果的に全国的統一の形が出来る。国家の支配権力をにぎったのが大陸文化で武装した九州方面の土着グループか、それとも山陰地方の朝鮮勢力の延長である近江・大和のグループであったか、或はまた朝鮮海峡を押し渡ってきて列島を席巻する騎馬族の一団であったのか、それは詳らかでないがとにかくそんな変動の中でこの島国の事態は一変した。
 中部山岳地方が減退すればその文化的影響も後退せざるを得ず、その後退が丸石信仰が消滅していった原因になる。丸石が広い地域から影を消したが、丸石信仰を自らの生活の中から生み育てた中部山岳地方の人々はそれを捨てがたく思う。真の文化というものにはそういう面があって、借りものでないあかしにも、其の後千年二千年の命脈を保って、よく今日まで残存したのである。」(『石にやどるもの―甲斐の石神と石仏』)

 丸石神は、第二の道具といわれ、現代では用途不明となった「縄文のビーナス」や「仮面の女神」などの土偶、石棒などと同様に、縄文文化の中ではぐくまれ、時代とともに消滅し、忘れられてしまった謎の遺構の痕跡なのかもしれない。

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2007年3月15日撮影

三富村徳和集落。乾徳公園前にある丸石。
 
 
 

















春日居町桑戸の丸石道祖神(下も同様)。


丸石が埋め込まれた高さ2m以上の基壇の上に鏡餅のような丸石が祀られている。

春日居町桑戸の丸石道祖神