顔貌は「万治の石仏」に比べ平面的である。


丸石道祖神と並ぶ首地蔵。
 丸石神取材の折、ここに訪ねてみた。太良峠に向けて登っていく地方道31号線の道路脇に「首地蔵」は忽然と姿をあらわす。夜道なら、さぞギョッとする出会いとなっていただろう。
 寸法を測ってみると、胴石の高さ約180cm。頭頂から首までが約70cm。奥行き3.7m、幅2.7m。「万治の石仏」を少し小振りにした大きさである。
 「万治の石仏」には、胴石に「南無阿弥陀仏」の六字、左に「万治三年十一月一日」その下に「願主 明誉浄光 心誉広春」と刻まれているが、「首地蔵」にはなんの名号も刻まれていない。いつ、だれがつくったのか、まったくの謎である。

 宮島潤子著『謎の石仏』に、「自然石の胴体に別の石で彫られた仏頭がはめこまれた石仏の例を、わたしは今までに他に二例しか知らない」とある。この二例の一つが「首地蔵」であり、もう一つが甲府市の塩沢寺にあると記されているが、他にも、甲府市の青松院、東光寺に類似の石仏があるという。
 甲斐地方に集約していることから「万治の石仏」になぞらえて、これらの「首地蔵」がつくられたのか? 「首地蔵」と「万治の石仏」どちらが先かを知るすべはない。

◎◎◎
 案内板には、以下の伝承が記されている。読みにくいので転載しておく。

 「この石仏は「首地蔵」という。造立時期は定かでない。
 伝へによると、今から数百年前、この地域に大雨が続き山の地盤がゆるみ、大きな土砂崩れがあり組内数戸が崩壊したる或る日、山の中腹より巨岩が転落し、齢い十二・三才の子守り娘と背負いたる赤子が下敷となり死亡した。
 以来、この地域の赤子がひどい夜泣き、何かにおびえるようになった。落ちたる巨岩からは夜になるとすすり泣きの声が聞こえたともいう。住人からは、娘の霊が祟っていると噂された。
 その後、この地域を訪れた旅僧がそのことを聞く、娘の慰霊のために石を削ってこの地蔵の首を作り巨岩の上に乗せ供養をしたるところ赤子の夜泣きは等はすっかりおさまった。
 村人たちは「首地蔵」と仰ぎ、香華を捧げ怠ることはなかったという。
 また、この道路工事により地蔵を撤去しようと石屋が地蔵に穴を開けた際及び人夫が地蔵を現在地に動かしたところ、いずれも病や怪我に遭遇している。
 信仰と祭りとしては、霊が宿っているので毎年春彼岸の中日、組を挙げて祭典供養が現在も行われている。
 首地蔵鎮座により住民の護念を願い記す。
  平成十二年三月
  水口区中組

◎◎◎
2007年3月15日撮影


継ぎ足しとは思えないほど仏頭と胴石はピタリと接合している。



背後から。

真横から。長さ3.7m、高さは1.8mの巨石に、約70cmの仏頭が載せられている。


【案内板】