高さ約10mの4つの巨石に囲まれる岩屋岩蔭遺跡。
木柵の奥には、幅約10m、奥行き約7mの洞窟状の空間が広がっている。


左奥にF石、中にE石、一番手前は高さ2.3mの立石(メンヒル)H。石の種類は、恵那山から県北西端の
大野郡白川村周辺にいたる広大な地域に分布している濃飛流紋岩と呼ばれる火成岩である。
 岐阜県の中東部、岩屋ダム堰堤の下流約500mの地点にある「金山巨石群」は、県史跡の「岩屋岩蔭(いわやいわかげ)遺跡」と「線刻石のある巨石群」。さらに、東へ徒歩40分の山腹にあるという「東の山巨石群」の3つの巨石群から構成されている。
 金山巨石群が人為的に造られた配石遺構とする確たる痕跡は見つかっていないが、妙見神社の祠を取り囲む、高さ10m以上、幅20m以上の切り立った断面をもつ3つの巨石からなる石組みは、なにか特別の意味を与えられた巨大なモニュメント(記念物)ようにも見える。

 遺跡周辺の発掘調査では、縄文時代早期の押型文土器片や石鏃(せきぞく・石の矢じり)が出土しており、遺跡は狩猟のキャンプ地として、早期から晩期にかけて利用されていたと見られている。また、弥生時代の土器片とともに、祭器として使用されたと思われる有孔磨製石鏃が見つかっており、祭祀的な機能をもった空間であったとも考えられている。

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 当遺跡が注目されているのは、地元の天文ファンでつくる「金山巨石群資料室」(小林由来代表)の考古天文学的調査による所が大きい。
 同資料室の10年にわたる調査から、巨石のすき間から岩かげ内部に差し込むスポット状の太陽光を観察することで、一年の正確な日数や、夏至と冬至の日が特定できることが確認されている。さらに古地磁気に関する調査では、巨石群が移動または回転を伴って現位置に定置したとする研究結果が発表され、巨石は人為的に配置されたものと考察している。

 古代の太陽観測に関しては、日本最大のストーンサークルである「大湯環状列石」において、万座環状列石と野中堂環状列石の2つの日時計状配石の中心点を結んだ線が、夏至の太陽の日没線と一致すること。さらに、三内丸山遺跡の六本柱を通して、夏至の日の出と冬至の日没が確認されており、縄文人が方位の観念をもち、太陽の運行サイクルを基調にした、一年の年間行動スケジュールを決定する縄文カレンダーの機能をもっていたことが知られている。
 こうした事例から、金山巨石群を巨石群を“目印”として利用した太陽観測台と捉えることはできるが、人工的に造られた遺構とするには、「益田岩船 」の事例からみて、石が巨大すぎ、現実味がないと考えるが、いかがだろう。

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以下の写真から【線刻石のある巨石群】


妙見神社の参道。鳥居を抜けると岩屋岩蔭遺跡がある。


岩かげの柵内にある妙見神社の祠。
祭神として、別天津神の最後に現れた神である
天之常立神(あめのとこたちのかみ)が祀られている。


【太陽観測のための案内板】(部分)
解説によると、南方向に開かれた
3つの巨大な石の面は、
冬至の約60日前(10/23頃)から
約60日後(2/20頃)までの約120日間、
岩かげ内部に太陽光が射し込む構造になっている。


「線刻石のある巨石群」は高さ7mほどのA、B、B’C、Dの5つの巨石が立ち並んでいる。


A石。写真中央部にある石面の刻印(3つの楕円形 と 2本の線刻 )。下図(左)を参照


夏至をはさんだ約60日間、空洞内にスポット状の太陽光が差し込ことが、矢印で示されている。


冬至の頃の太陽観測ができるB石とB’石。右端はD石。上図(右)を参照
 巨石の傍らの至る所に、太陽観測のポイントを詳細に解説した案内板が設置されている。岩屋岩蔭遺跡から数十m離れた「線刻石のある巨石群」にある「巨石に刻まれた太陽観測の痕跡」(上図左)の案内板を見てみよう。
 これは、A石にある3つの楕円の痕跡(最大のものは長径20cm、短径7cm)が、岩の下の空洞(上写真右)にスポット状に差し込む夏至の頃の太陽光と大きさが一致するというもの。金山巨石群資料室では、巨石表面の痕跡が古代の太陽観測台説を裏付ける発見と捉えている。

 金山巨石群における古代天文学の試みは「金山巨石群資料室」のホームページ「金山巨石群と太陽暦」 で見ることができる。

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2008年11月03日撮影


【巨石群の案内板】(部分、巨石のA〜Jの記号は管理人よる)。右の巨石群が「線刻石のある巨石群」