薬師山頂上の磐座群。左の石が【A石】、右が【B石】。【A石】と【B石】の間隔は約4.3m。
中央に置かれた小さな祠の後方に【C石】が見える。


天白磐座遺跡の測量図(『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』新泉社 より転載)
薬師山の北、西、南の三方を囲むように神宮寺川が流れている。


もっとも大きい西側の【A石】。高さ7.39m、南北10.3m、東西6.8m。石の種類は、チャートと呼ばれる堆積岩の一種


東側の【B石】。高さ5.2m、幅約7m×4.1m


北側から見た【C石】。高さ2.7m、底辺3.5m


【A石西側】高さ7mに及ぶ磐座の西側直下は、古墳時代の祭祀場として限定され、
手づくね土器や鉄矛、滑石製勾玉(まがたま)などの祭祀に用いられた遺物が出土した
 巨石が織りなす超自然的な配置の妙は、じつに隙なく、みごとなコンポジションとしておさまっている。
 野本寛一氏は『神と自然の景観論』のなかで、天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡は、「沖ノ島磐座群には及ばないまでも、熊野の神倉山のゴトビキ岩、上州の榛名神社の磐座、大和の大神神社の磐座群に匹敵するもの」と記している。
 私は沖ノ島も大神神社の磐座群も見ていないので、野本氏の洞察を論ずることはできないが、それでも氏の言葉には合点がいく。神の気配を感じさせる「聖性地形」としては秀逸で、日本の磐座ベストテン入りもまちがいないと思われる。

 天白磐座遺跡は、渭伊(いい)神社本殿の後方にある薬師山(山といっても標高41.75m)の頂上に、3個の巨石を中心に40m四方にわたり中小の石が散在するかたちで展開している。岩塊の散らばり方から太古は一つの巨大な石であったようにも見える。

◎◎◎
 遺跡発見のストーリーは、辰巳和弘氏著の『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』(新泉社)に詳細に記されている。
 きっかけは『磐座紀行』藤本浩一著(1982、向陽書房)に掲載された、渭伊神社の巨岩に関する短文と1枚の写真にあったという。「引佐町(いなさちょう)歴史と文化を守る会(歴文会)」のメンバーがこの本を目にしたことで、薬師山の巨石群が磐座遺跡であると認識される。
 昭和59年(1984)、磐座周辺は下草や丈の低い雑木におおわれ、かなり荒れた状態にあったが、歴文会が中心になって手入れが行われ、祠(ほこら)が置かれ「磐座まつり」が開催される。この手入れで、磐座周辺は現在の景観に回復され、これが遺物発見の大きな布石となった。

 昭和63年1月、引佐町の遺跡分布調査を行っていた同志社大学の辰巳先生と学生5人が、巨石群に立ち寄った折、学生の一人が地表に顔を出した土器の破片を発見した。全員が自分の足元に目をやると、破片はつぎつぎに見つかり、たちまち20点近い破片を採集する。

 本格的な発掘調査は、翌年(1989)8月に2週間余にわたって行われた。この調査で4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)に至る長期間、連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなった。
 とくに高さ7.39mに及ぶ最大の磐座【A石】の西側直下は、古墳時代の祭祀場として限定され、多量の手づくね土器や鉄鉾(てつほこ)、滑石製勾玉(まがたま)などの遺物が出土した。また3個の巨石から成る三角形の空間からは、渥美半島で生産された経筒外容器が和鏡とともに出土しており、平安末期から鎌倉時代にかけての、経典を土中に埋納する経塚であったと推察されている。

◎◎◎
 渭伊神社の創祀年代は不詳だが、『日本三代実録』貞観8年(866)12月26日の条に「遠江国正六位上蟾渭神」が従五位下に昇格したという記載がある。この「蟾渭神」が、延喜式神名帳にある渭伊神社の古名と考えられている。蟾渭神の「蟾(ひき)」はヒキガエルのこと。カエルは水をよび雨をもたらす「水の精霊」と考えられることから、井戸や井水を祭祀対象とした神社であったと思われる。

 渭伊神社は元、東南に10分ほど歩いた井伊氏の菩提寺・龍潭寺の境内にあったらしい。井伊氏は平安から戦国時代までの600年にわたり当地方を治めた名門で、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では後醍醐天皇の第四皇子の宗良親王(むねながしんのう)を迎え北朝と戦い武勲をなしている。現在地には、江戸時代初期(一説には享禄 4年(1531))に遷座したという。「渭伊」の郷名も、元は「井」であったが、和銅6年(713)の「好字二字令」によって二字に変えられたものと思われる。

 祭神には、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、品陀和気命(ほむだわけのみこと・応神天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)と八幡の神々が祀られている。近世までは、正八幡宮とも呼ばれており、今でも地元では「八幡様」と呼ばれ親しまれている。

 渭伊神社のある井伊谷(いいのや)地区は、4世紀から5世紀前半にかけて造られた古墳群が集中しており、この地方に勢力を張った有力豪族の存在が明らかになっている。 辰巳氏は、この古墳を築いた首長(井伊氏の祖先?)が「井のクニ」の磐座祭祀を行ったと推論している。井伊谷周辺に残る井水伝承や三方を神宮寺川に囲まれた薬師山の地形などから推察して、天白磐座遺跡は、水霊を祀る祭祀の場であり「井のクニ」の人々にとっての産土(うぶすな)の聖地であったと位置づけている。

◎◎◎
 それでは、古墳時代以前の天白磐座遺跡はどのような場所だったのだろう?
 辰巳氏著の『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』のなかに、遺跡の発掘が行われる以前、地元では「おがみ所」と呼ばれていたという記載がある。
 「おがみ所」とは、縄文時代にまでさかのぼる「神奈備山信仰」を示唆するものではないだろうか。熊本市の「拝ヶ石(おがみがいし)巨石群」も、磐座としてではなく、遠く離れた三ノ岳を拝む「遙拝所」であったという見方が強い。天白磐座遺跡も、現在は杉林に隠れて見ることができないが、北東約3kmの地点に、三ノ岳のよく似た名前の「三岳山」(みたけやま・467m)がある。三岳は御嶽(みたけ、おんたけ、うたき)に通じることから、古代から信仰対象(神山信仰)の聖なる山であったと思われる。

 縄文学の泰斗、小林達雄氏も『縄文の思考』(ちくま新書)のなかで「風景の中に特別視した山を必ず取り込もうとして来たのが縄文人流儀であった」「ストーンサークルや巨木列柱や石柱列や土盛遺構の位置取りを山の方位と関係づけて配置した」と、古代遺跡と神奈備山信仰の関係について言及している。

 さらに在野の古代史研究家・井上香都羅氏は、古代遺跡と神奈備山の関係を解明すべく、日本全国の縄文・旧石器遺跡500ヵ所を訪ね歩き調査を行っている。この調査をもとに書かれた『古代遺跡と神山紀行』(彩流社、2003)には、「古代遺跡の正面には必ず三角形の神山がある」ことを突き止め、神山信仰は、死者の魂(祖霊)は山に帰ると信じる「祖霊信仰」に基づくものであると考察している。
 天白磐座遺跡が「おがみ所」と呼ばれる由縁は明らかでないが、ここが聖なる山を仰ぎみる遙拝所であり、祖霊を祀る祭祀の場であったとする見方も十分に考えられる。

◎◎◎
2013年12月8日 撮影



境内社として
若宮八幡社、水神社、御鍬社、菅原社が祀られている


天白磐座遺跡の南西、
神宮寺川に面した崖にある「鳴石」。
神社側では高さ2m余、川側では8m余の巨大な石。
周辺から古墳時代の須恵器や
中世の山茶碗が見つかっている


渭伊神社境内にある「磐座」の解説図。
三角形の神山が三岳山をあらわし、
下の四角い部分が天白磐座遺跡と解することもできる



 昭和34年(1959)、引佐町に隣接する三ヶ日町
(みっかびちょう)の石灰石採石場から、
「三ヶ日人」の人骨化石が発見されている。
発見当時は旧石器時代のものと
みられていたが、放射性炭素年代法により
今から9000年前の縄文時代早期の人骨と分かった。
さらに、浜北市の根堅洞窟では、
約1万4000年〜約1万8000年前の
旧石器時代の「浜北人」が見つかっている。

渭伊神社本殿。式内社 遠江國引佐郡渭伊神社 創祀年代は不詳。
近世までは、正八幡宮と呼ばれていた神社で、祭神も八幡の神々。背後の丘に天白磐座遺跡がある。