生馬神社の境内。鳥居のさきに巨大な岩が鎮座している。


山から滑り落ちたと思われる高さ3mの大岩。


本殿裏の磐座。




『石神さんを訪ねて〜出雲の巨石信仰』(山陰中央新報社)には、石の大きさ高さ2.7m、周囲22mと記されている。

 嶋根郡生馬(いくま)の郷は、島根半島中部の湖北地域。宍道湖北岸の佐陀川東岸に位置している。
 『出雲国風土記』には「生馬の社」が2社記載されている。1つは「神祇官に在り」の東生馬町の生馬神社、もう1つは西生馬町にある生馬神社で、こちらは「神祇官に在らず」と記されている。2つの神社は、丘陵を1つはさみ、直線距離にして約1.2キロほど離れた山のふもとに鎮座している。

 今回訪ねたのは、「神祇官に在らず」の西の生馬神社である。神社はごくありきたりの村社のたたずまいだが、鳥居をくぐるといきなり高さ3mほどの大岩があらわれ意表をつかれる。これがご神体の磐座かと思ったが、境内の巨石はこれだけではなかった。本殿の裏手斜面にも、今にも滑り落ちそうな状態で、大きな岩が重なり合った岩場が見られる。いつの時代から岩が露出しているのかは不明だが、本殿背後のこの岩場が、江戸時代の『雲陽誌』に「大岩明神」と記され、現代においても地元の人々から大切に祀られているご神体と思われる。

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 西の生馬神社の主祭神は、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の説話に登場する道返大神(ちかえしのおおかみ)で、別名を泉門塞大神(よみとさえのおおかみ)、『古事記』では黄泉戸大神(よみどのおおかみ)とも呼ばれている。黄泉の国から、伊邪那美命(いざなみのみこと)に追われて逃げ帰った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、黄泉比良坂を塞いだ大岩「千引の石(ちびきのいわ)」を神格化したものといわれている。

 一方の東の生馬神社の主祭神は、八尋鉾長依日子命(やひろほこながよりひこのみこと)で、この神は『出雲国風土記』にのみ登場し、生馬郷の地名由来には「神魂命(かみたまのみこと)の御子、八尋鉾長依日子命がおっしゃたことには、「わたしの御心は、安らかでか憤(いく)まず」と仰せになり、故に生馬という」と記されている。

 今から約1300年前の風土記の時代、生馬郷の北は加賀(かか)郷、南には法吉(ほほき)郷があった。加賀郷の神は支佐加比売(きさかひめ)、法吉郷の神は宇武加比売(うむかひめ)とされている。両女神とも神魂命の子で、大国主命(大穴牟遅神)が八十神(やそがみ)の迫害を受け焼き殺されてしまったとき、大国主命を治療し、甦らせた神として知られている。
 風土記には、支佐加比売は「加賀の潜戸」で佐太大神(佐太神社の祭神)を産み、宇武加比売は法吉鳥(ほほきどり=ウグイスのこと)と化して法吉郷に飛来し、その地に鎮座したと記されている。

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 支佐加比売(『古事記』では蚶貝比売)は赤貝を、宇武加比売(『古事記』では蛤貝比売)はハマグリを神格化したもので、両女神は海辺の人々の信仰から生まれた神と考えられている。生馬郷の神・八尋鉾長依日子命も、両女神と同じ神魂命の子とされることから、この生馬郷一帯も、かつては出雲の北の海岸部を支配していた佐太大神の信仰圏にあったと思われる。
 とするならば、風土記の時代には、当社も東の生馬神社と同様に八尋鋒長依日子命を祭神として祀っていたのではないだろうか。同じ生馬郷の神社として、当社の祭神が、黄泉比良坂に登場する道返大神では、いかにも開きがありすぎるように思えるのだが。

 いずれにせよ、当社の巨石は、古くから磐座として祀られていたが、後世に大岩に付会して、祭神を道返大神にあらためられたと考えられる。

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2016年4月25日 撮影

神社は高台にあり、境内の下は谷間となって
一跨ぎできるほどの狭い川が流れている。


生馬神社・拝殿。