万座環状列石。直径約52m、日本で最大のストーンサークルである。周囲には復元された掘立柱建物が並ぶ。(2枚の写真を合成)


万座環状列石。写真の中央上部に人工のピラミッドと噂される黒又山(クロマンタ)が見える。


万座環状列石。上部に日時計状組石。環状列石は小規模な組石遺構の集合体で、一つの組石は集落ごとに管理されていた。


野中堂環状列石。直径約42m、内と外に二重の輪を描くように帯状の石組みが並べられている。


野中堂遺跡の日時計状組石。直径は約2mほど。
 三内丸山遺跡から南へ約100キロ。大湯(おおゆ)環状列石(通称:大湯ストーンサークル)は、鹿角(かづの)市の東を流れる大湯川の左岸段丘、風張(かざはり)台地上にあって、県道66号線を挟み、90mの間隔をおいて東側に野中堂、西側に万座の2つの遺構を中心に構成される縄文時代後期、今から約4000年前の遺跡である。
 昭和6年(1931)4月、耕地整理作業中に、十和田湖噴火の火山灰層の中から不思議な遺構が見つかった。以来、学会の一部の間では知られていたが、昭和26年の組織的な発掘調査によって、謎のストーンサークルの存在が広く知られるようになる。

 遺構の大きさは野中堂が環状直径約42m、万座が少し大きくて約52m、ともに2重のサークルを形づくっている。放射線状に石を配した日時計と呼ばれる特殊組石は、野中堂、万座ともに外帯と内帯の間の西側のところに位置している。
 列石に使われている石は、水に濡れると美しい緑色になる石英閃緑(せんりょく)ひん岩と呼ばれる石で、遺跡から北東に4〜6km離れた安久谷(あくや)川の河床から採集されたものと考えられている。石の平均は30kg、最大で200kgもあり、総数は5,000〜7,000個におよぶが、大正年間頃、付近の河川工事に相当大量な石が、遺跡と気づかれないままに運び出されたといわれている。

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 昭和26〜27年に行われた発掘調査では、約100基の組石の中から、任意に選ばれた14基の組石が解体され下部の調査が行われた。11基の組石に長軸1m、深さ50cmほどの土壙、3基の組石から大小円形の土壙が確認されるが、人骨や副葬品は出土せず、墓地説の決め手となる証拠は発見されなかった。定説が見つからないなかで、考古学者やアマチュアの古代史ファンから、祭祀祭壇説、墓標説、天文観測所説、日時計説、変わったところではUFO基地説、エネルギー発生装置説などの諸説・珍説が登場する。

 昭和59〜61年の発掘調査では、遺構群のすべての配石下に墓壙があることがわかり、2つの穴からは甕棺、1基からは副葬品と考えられる13点の石鏃、他の1基からは朱塗りの木製品が見つかった。また、3基の土壙から採集された残存脂肪酸分析により、高等動物に特徴的な脂肪酸とコレストロールを検出した。
 日本の土壌は酸性を帯びる地域が多く、骨などは溶けてしまい埋葬した遺体が残ることは珍しい。しかし、人間は多量の脂肪酸を体内に蓄えていることから、土壙の中に残存する脂肪酸を調べることで、死者が葬られているのかどうかが解るようになった。この調査で、環状列石の主要な役割を墓地とする説が有力になってきた。

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 環状列石は、いわば小規模の組石遺構がサークル状に並べられた配石遺構の集合体である。組石は数基から10数基のグループに分けられ、集落ごとに管理されていたようである。環状列石周辺から見つかった竪穴住居跡はわずか5軒である。この遺跡を造った人たちが、大きな集落を形成し、すぐ近くに住んでいたとは考えられない。周辺の集落が共同でつくった可能性が高く、いくつもの集落からなる共同墓地であったと考えられる。
 この遺跡がつくられた約4000年前の縄文後期は、三内丸山時代に比べると平均気温が2、3度低下していたと考えられる。こうした気候変動により大集落の維持は困難となり、集落は分散し小型化していった時期である。大勢の人が一堂に会し、短期間のうちにこの環状列石をつくりあげたとは考えにくい。これらの石は一度に運ばれたものではなく、小人数の作業により、100年、200年をかけて、幾世代にもわたって運んでこられたものと思われる。

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 墓地説のほかに、環状列石は太陽信仰に関連した「モニュメント」とする説もある。かねてより、万座環状列石の日時計状配石と野中堂環状列石の日時計状配石の中心点を結んだ線が、夏至の太陽の日没線と一致することが指摘されていた。この説は、昭和31年(1956)に川口重一氏によって発表されていたが、小林達雄氏や冨樫泰時氏らによって再評価され、平成6年に実施検証が行われ正しいことが確認される(下図参照)。
 また、日時計状組石は、東西南北の四方向に大きな石を配していることから、縄文人が方位を意識していたことがうかがえる。方位の観念をもち、太陽の運行サイクルを基調にした、一年の年間行動スケジュールを決定する縄文カレンダーでもあったのだ。

 太陽は沈み、また昇る。太陽はよみがえりと輪廻のシンボルであった。のちの天照信仰、天道信仰といった太陽を中心とするコスモロジーの源流を、縄文のストーンサークルに見ることができる。
 ついで、大湯環状列石の北東には、地元の人が「くろまんた」(黒又山)と呼ぶ小山がある。高さは80mだが、平坦な台地にあるので、どこからでもきれいな三角山を見ることができる。黒又山は人工のピラミッドで、大湯環状列石と一体不可分のものではないかという指摘もある。みちのくのミステリーゾーンは顕在である。

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2008年4月26日撮影

万座環状列石。日時計状組石模型。
遺跡にはロープが張られ中に入ることはできない。
これは展示室内の模型。


野中堂環状列石。日時計状組石模型。
東西南北の四方向に大きな石が配していることから、
縄文人が方位を意識していたことがうかがえる。


野中堂環状列石。内帯1号組石模型。
「古代では石には霊魂の荒魂(あらみたま)を
鎮める鎮魂呪力があると信じられていたから、
石で死体の周囲を囲むことによって、
荒魂がすさび出ないでおとなしい和魂(にぎみたま)に
なるだろうと思われていた」
五来重『石の宗教』



供物を供えるための台がついた土器。


大湯環状列石から出土した天使のような愛らしい土偶。



シンポジウム『縄文時代の考古学』学生社 より転載