石の組み方は「小牧野式組石」と呼ばれる独特なもの。石を縦に置き、その両脇に横に石を置いて環状に並べている。


小牧野遺跡は、大規模な土木工事によって丘の斜面を削り取り、円形のステージ状の広場が造営されている。
近くに平らな場所があるにもかかわらず、この場所が選ばれているのは、なんらかの特別の意味があると思われる。


傾斜部に見える外帯と内帯。内帯の規則的に並べられた配石の前に、環状配石がある。


内帯の北東にある馬頭観音。文字は江戸時代に刻まれたようだが、元は列石内の立石と思われる。

 青森市の三内丸山遺跡から南に約10km。東を流れる荒川と西の入内川に挟まれた標高145mの丘陵上に、縄文時代後期の環状列石遺構・小牧野(こまきの)遺跡がある。
 遺跡の存在は古くから知られていたが、初めて調査が行われたのは1980年代前半、当時青森山田高等学校に勤務していた葛西励・高橋潤両氏によるものだった。その時は、続縄文時代の遺物が発見されただけで環状列石は見つかっていない。昭和60年(1985)、青森市教育委員会が高田村史の編纂のために発掘調査を行い土器などを発見。そして、平成元年(1989)、葛西・高橋両氏が率いる青森山田高等学校の考古学研究会による調査で、きわめて保存の良い、大規模な環状列石を発掘し、マスコミなどに大きく報じられ注目を集めるところとなった。
 平成2年から青森市教育委員会が調査を受け継ぎ、竪穴式住居跡、土壙墓、水場施設、道路状遺構などを発掘。平成7年に国指定史跡となっている。

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 小牧野遺跡は、丘の斜面を削り取って平らにする大規模な土木工事の基に形成されている。環状列石の大きさは、直径2.5mの中央の組石を中心に、やや角張った二重の環状をなし、外帯の直径は約35m、内帯の直径は約29m。用いられた石は、460m離れた荒川から運ばれたものと推測され、平均約12kgの川原石が約2,400個。総重量は約27トン、一番重いものは493kgあるという。

 遺跡は今から約4,000年前、大湯環状列石とほぼ同じ時代に造られたものだが、形態や様式においては異なる点が多い。大湯の環状列石は、小規模の組石遺構がサークル状に並べられた配石遺構の集合体であり、遺構の下から多くの土壙が発見されている。一方、小牧野では配石墓などの遺構が確認されておらず、外帯と内帯の間から、特殊な埋葬形態の3個の土器棺が見つかっているだけで、全体で一つの配石遺構を形成している。
 また、大湯は完成までに長い年月を要しているが、小牧野はいくつかの集落が集まって、一気に造られた「計画的な環状列石」であると考えられている。

 石の組み方は、全国的にも珍しい「小牧野式組石」と呼ばれる独特なもので、石を縦に置き、その両脇に横に石を置いて環状に並べている。縄文中期後半に造られた、三内丸山遺跡の環状配石で、これと類似する遺構が発見されており、ストーン・サークルの原形を三内丸山に求める声もある。
 もう一つの共通点に“縄文尺”と呼ばれる長さの単位がある。青森県東北町教育委員会の古屋敷則雄氏の説によると、人の腕の尺骨(約35cm)を最小単位として、小牧野遺跡の石組が4.2m(35cmの12倍)の規格によって造られているという。4.2mは、三内丸山の巨大六本柱の柱穴間隔でもある。縄文尺は、縄文前期以降、東日本において、大型建物や掘立柱建物の建設や環状列石の設置などの公共性の高い築造物に用いられたと思われる。

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 縄文中期末頃から集落の小型化、分散化が急速に進んでいく。三内丸山や近隣の大集落も分散し、小さな集落に分かれて暮らすようになった。
 小牧野環状列石は、離れ離れになった人々が、かつて血縁・地縁をもった同じ氏族の人たちと、定期的に一堂に会す場所として発生し、精神的な結束を強めるために、ここで先祖の供養や祭りなどの儀式を行ったのではないだろうか。
 縄文中期後半に三内丸山で造られた環状配石墓が、後期に入って、ふたたび環状列石となって受け継がれて復活し、自分たちの集落に埋葬していた祖先の遺骨を、骨壷に入れてここに運び込み、配石下に壷ごと埋納した。環状列石は、集団的記憶を伝承するための記念物(モニュメント)であり、墓の機能をもった「多目的な祭祀の場」というわけである

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2008年4月27日撮影


立派な立石のある組石遺構。


サークル状に並べられた組石遺構。


傾斜部の「小牧野式組石」。


馬頭観音となっている配石(後方)と中央の立石を結ぶ線が、夏至の日の出線と一致している。