当初、屋根付きの高さ20mの高層建築の可能性が宣伝されていたが、
最終的にはロシア産のクリ材を用いた14.7mという高さに落ちついた。


柱の根部分が残る大型掘立柱建造物跡。穴の深さは2m。4.2mの等間隔で配置されている。


長軸32m、短軸9.8mの楕円形大型竪穴建物。11棟見つかった大型竪穴住居跡のうち最大のもの。


楕円形大型竪穴建物(写真上)の内部。中央に炉があり、集会場や共同作業場、あるいは冬の間の共同家屋と考えられている。

 三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、縄文時代前期中葉から中期末葉、今から約5500年〜4000年前の1500年間にわたり定住生活が営まれた大規模集落の跡地である。青森駅から南西方向へ約4キロ。八甲田山系から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20m、広さは約38haで東京ドーム7.5個分にあたる。

 三内に遺跡があることは、遮光器土偶が出土した亀ヶ岡遺跡と並んで、すでに江戸時代から知られていたようだ。江戸後期、紀行家・菅江真澄が三内を訪れ、『すみかの山』(1799)に、土器や土偶の精巧なスケッチと考察を記している。
 昭和28年に最初の学術調査が行われるが、本格的な調査は平成4年(1992)から青森県埋蔵文化財調査センターによってスタートした。平成6年7月、直径約1mの破格の大きさをもつクリの巨木を6本立てた大型掘立柱建物跡が見つかる。この発見を機に、縄文の時代観を根底から揺るがす“超一級の縄文遺跡”という折り紙が付けられ、遺跡の運命は野球場建設から保存へと大きく変貌していった。

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 遺跡のシンボルともいえる大型掘立柱建物は、佐賀県の吉野ケ里遺跡(弥生時代)の物見やぐらを2m近く上回る高さ14.7mの三層構造の高床式の建物として復元された。巨大柱の性格については、「建物説」と木柱列論に立つ「非建物説」の2つの流れに分かれ、「物見やぐら」「神殿」「灯台」「ウッド・サークル」など様々な説が唱えられ大論争に発展するが、いまだその用途を特定するには至っていない。
 6本柱建物跡を復元するに当たり、青森県は屋根付きの建物を想定したが、「非建物説」を主張する小林達雄(國學院大學教授・考古学)、佐原真(元国立歴史民俗博物館館長・'02年没)、佐々木高明(国立民族学博物館名誉教授・民族学)らの反論で、結果的には屋根なしの三階建てという中途半端な復元になった。

 観光を目的とした遺跡公園としては、屋根付きの立派な装飾を施した建物の復元が望ましいのだろうが、確実に分かっているのは、直径約1mの6本のクリ材が、深さ2mの穴に4.2mの等間隔で配置されていたことだけである。建物の高さや構造においては、想像の産物でしかない。実際に建物が復元されると、それが目についてしまいイメージを固定化させてしまう。6本柱の用途が確定していないうちの復元は、勇み足だったかもしれないが、集客のためには致し方ないというのが現実なのだろう。


掘立柱建物。周辺及び内側に生活の痕跡が発見できなかった
ため、高床式建物であった可能性が高いと判断された。


茅葺き竪穴住居。


樹皮葺き竪穴住居。



大型板状土偶(部分)。縄文時代中期の盛土から出土。高さ32cm。頭と胴体部分が
90mも離れた場所からそれぞれ発見された。何かの意図があり、わざと別々の場所に棄てられたかは不明。

 これまでの発掘調査で、600棟近くの住居跡が見つかっているが、さらに発掘が進められることで最終的には3000棟にも及ぶものと推定されている。多いように思えるが、この数字は1500年間の集積である。これから同一時期にどれだけの住居が建っていたのかを推定するのは極めて難しい。
 今から4500年前の最盛期の住居数は約100棟。1棟に4、5人が住んでいたとすれば、人口400人から500人くらいの集落になっていた可能性が高いといわれる一方で、多くてせいぜい100人とする説(小林達雄)もあり、学者の意見はまちまちである。

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 集落には、東西に420mのもう少しで海に接するところま延びる道と、南北に220m続く道がある。
 東西の道は「墓の道」とも呼ばれ、12〜15mの道幅をもつ大きな道を挟んで、大人の墓が250基ほど列状に並んでいる。まだ人骨は出土していないが、形態や残留脂肪酸分析から、墓であることは確実とされる。子供の墓は、北盛土と北の谷に隣接した集落の北東側で見つかっている。

 南北の道沿いでは、平成15年度までの調査で環状配石墓(ストーンサークル)が22基見つかっている。環状配石の直径は約4.2mで、礫(れき)を円形、あるいは弧状に配置され、内部に土坑墓がある。これらの石は15cmから30cm程度のものが多く、大きなものでは1m以上ある。
 遺跡から南に約10km離れた堤川上流(荒川)に河原があり、環状配石墓に使われているものによく似た楕円形や丸棒状の石、そして1mを超える大きな石を見つけることができる。また、東に約10km離れた野内地区など青森市東部には、板状に割れる扁平な石があり、三内丸山遺跡の配石遺構にもよく似た石が使われている。

 縄文後期になると、三内丸山から南に約8km離れた小牧野遺跡に環状列石がつくられる。「小牧野式組石」と呼ばれる独特な組石の配置は、三内丸山遺跡の環状配石墓と共通性があり、三内丸山遺跡との関連が注目されている。
 ストーンサークルについては、「大湯環状列石」「小牧野遺跡」に記すが、これらの墓はムラ長の墓とも考えられている。地面に楕円形の穴を掘っただけの東西の道の列状墓とは基本的に異なる形態で、縄文時代の階層社会の存在を裏付けるものと考えられる。

 これほどの大集落がなぜ終焉を迎えたのか。これも三内丸山の大きな謎である。まず挙げられる要因が、気候の寒冷化である。三内丸山が栄えていた期間は、平均気温が現在より2、3度高かったと考えられている。縄文海進のピークにあたり、海が遺跡の間近まで接近していて、遺跡のすぐそばから舟を漕ぎ出すことも可能だった。しかし後期に入ると、次第に寒冷化が進み、豊かな森の生産力が低下し、大集落を維持する食糧の確保が難しくなってきた。
 次に考えられるのは、限度を超えた肥大化により、集団内に軋轢が生じ、集団の維持・結束が困難になってきたというものだが、これらの要因だけで遺跡全土を放棄するとは考えにくい。決定的な要因は謎のままである。

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2008年4月27日撮影

縄文草創期・早期・前期の土偶には顔がない。
顔や手足などが表現され始めるのは中期以降である。


十字形の板状土偶。三内丸山では1600点をこえる
日本最多の土偶が見つかっている。


縄文中期初頭の十字形の板状土偶。高さ21cm。



発掘された深鉢土器(展示室)。


【案内板】