注連縄を巻いた男石。左の石段を上り鳥居をくぐると彌榮神社。その上に天王山公園がある。


左が男石(周囲約10 m、高さ約5m)、右が女石。見事な花崗岩だが下部がコンクリートで
固めてられていて、本来の形が失われていることが惜しまれる。


町のシンボル的存在として鎮座する夫婦石。千厩の名は、かつて馬産地であったことを示す「千の馬屋」に由来する。

 夫婦石、夫婦岩を祀る神社、祠は全国各地に数多く存在する。その筆頭といえるのが三重県伊勢市・二見興玉(おきたま)神社の夫婦岩だろう。海面から突き出た2つの岩の間から昇る朝日の神々しさ──。海、空、太陽(あるいは月)と岩が一体となってつくる荘厳な景観である。
 一方、千厩(せんまや)夫婦石は、寄り添うようにつつましく並ぶ夫婦岩とは対照的に、亀頭に鉢巻きをして、今にもことにおよぼうという怒張ぶりである。私のヘタな説明よりも、まずは案内板の名調子を読んでいただきたい。

 「雄然たる龍頭は烈強なる陽茎に支えられ天地正大の気、この地に発する観あり、男石の後に日本の美風を堅守し豊満にして慎ましやかな女石は谷間の白百合の如く万人の感動をよぶ。
 この赤裸々な自然の成せる好一対の象徴は蓋し稀有にして本邦一の景観である。」


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 このような見る者の苦笑をさそう石を、町のシンボルとしてを祀るとは何事かとお怒りになる方がいるかも知れない。実際、明治5年(1872)には、「淫祠(いんし)邪教」を戒める法令が施行され、こうした性神信仰は“淫祠”の代表的なものとして取り締まられた歴史もある。しかし、きびしい宗教統制にあっても、根絶することなく生き続けてきたのは、日本人の信仰形態のなかに、性信仰が非常に強く根を張っていることの証ともいえる。

 男根崇拝はすでに縄文時代からはじまっている。日本列島各地の縄文遺跡から、あきらかに亀頭を意識して造られた男根形の石棒が数多くに出土している。
 石棒は、人の手で男根状に加工されたもので、縄文前期後半から作られはじめる。当初は手のひらに収まる程度の大きさだったが、しだいに大形化し、後期には、竪穴住居内から屋外に持ち出され、祭祀や埋葬に関わる配石遺構の中に組み込まれていった。
 岩手県遠野市の「山崎のコンセイサマ」で、「石棒の下に人骨が埋まっている。という伝承は、性信仰が、農作物の豊穣、縁結び、子授け、出産などの民間信仰と結びつく以前に、祖先の霊を祀る神であったとことを、今に示すエピソードなのではあるまいか。」と記した。

 石棒は、祖霊信仰がそもそものはじまりで、これが道祖神(どうそじん)に発展し、磐座(いわくら)信仰と結びついていったと考えられている。
 道祖神は、岐(ふなど、くなど)の神、巷(ちまた)の神、または賽(さえ)の神などともいい、集落の境や道の辻、坂、峠、橋のたもとなどで、悪霊邪気を威かくし、その侵入を防ぐ神である。松尾芭蕉の『奥の細道』では、旅の神として序文にも登場する。 このように道祖神は、村の守り神、子孫繁栄、家内富貴、五穀豊穣、そして交通安全の神として信仰されているが、道祖神の祖の字のつくりの『且』は、男根を表しているという説(郭沫若)もあり、あくまで祖霊の「祖」に起源があると思われる。

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 千厩の夫婦石は、古くは道祖神として信仰されていたが、やがて『古事記』『日本書紀』に登場するイザナミ、イザナギ神話やサルタヒコとアメノウズメの夫婦神信仰が習合し、夫婦和合の神となり、子作り・子育て・子宝の神として広く信仰されてきたのだろう。しかし、夫婦石の系譜は、はるか縄文時代にまでさかのぼるものであり、千厩町にとっては、先人が祀った祖先神であり、大切な守り神であったことを忘れてはならない。
 町のシンボルにふさわしい、稀有にして本邦一の景観である。

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2012年4月30日 撮影



彌榮神社の鳥居


天王山公園に至る石段から。


【案内板】素晴らしい文章である。